仏教トーク|仏教経典チャット風会話訳

仏教経典を意訳再構成してLINEのグループトークのような会話形式にした記事を書き続けています。題して「仏教トーク」です。

元は漢文だけで書かれたお経が、現代の日本語となって、はるか昔のお釈迦さんや弟子達の会話に触れることができます。

私(ちしょう)も、このような古いお経の話から、仏教に興味を持ち始めました。仏教入門としてもおすすめです。

全仏教トーク一覧(新着順)

人は見た目で判断できない【仏教トーク】
本記事は「雑阿含経巻第37-1063」の内容をもとに作りました。孔雀は荘厳な羽を以て着飾るも大空を舞う鴻鵠(※1)の如くならず。外見を美しく着飾るも功徳を積んだ貴さには及ばず。今、この弟子は良馬の如くよくその心・行を調う。欲望や思い込みから離れその身心を以て、魔を打ち破る。
自分がされて嫌な事は他の人にもしない【仏教トーク】
本記事は「雑阿含経巻第37-1039」の内容をもとに作りました。「自分がされて嫌な事は他の人にもしない」というのは簡単です。当たり前の事です。しかし、案外、人は当たり前のことほど、よく見失いがちです。
白(浄)黒(不浄)の話|牛の糞と肥料【仏教トーク】
本記事は「雑阿含経巻第37-1039」の内容をもとに作りました。牛の糞は不浄。肥料は浄。白と黒、浄と不浄、善と悪。それらに関わるお話です。
弟子をお見舞いに行くお釈迦さんの話【仏教トーク】
本記事は「雑阿含経巻第37-1024」の内容をもとに作りました。体調を崩したアッサジさん。病気で以前のようには動けない。お見舞いに来たお釈迦さんの説法。
キツネの恩【仏教トーク】
本記事は「47-1264」の内容をもとに作りました。恩を知り、恩に報いる。キツネを例にしたお話です。
名利(名声や利益)を求めない【仏教トーク】
本記事は「雑阿含経巻第47-1250」の内容をもとに作りました。名利(名声や利益)を求める二人。彼らは競って多くの供養をもってきましたが、お釈迦さんは名利を求めていない事を説きます。
金属職人の日常のように【仏教トーク】
本記事は「雑阿含経巻第47-1246」の内容をもとに作りました。修行は特別なものではありません。彼ら職人の日常のようなものですよ。
比べない、比べられない、人の事
本記事は「雑阿含経巻第35-990」の内容をもとに作りました。人と人を比べて、優劣をつけ、数字の上で評価するにように推し量ることは止めたほうがよいです。人をこのように計れば、その考え方に病んでくるでしょう。自分も他者からのそのような評価を気にし、その考え方に患わされることになるでしょう。
愛から怒りが生まれる。怒りから愛が生まれる。
本記事は「雑阿含経巻第35-985」の内容をもとに作りました。仏教的に、好き・嫌いなどの感情、欲望と怒りなどの欲求をどのように考えているのか、教えを振り返りながら「愛から怒りが生まれる。怒りから愛が生まれる」の意味を探ります。
学びの種、実を結び、果と成る|三学(戒・定・慧)
本記事は「雑阿含経巻第29-827」の内容をもとに作りました。三学(戒・定・慧)について書かれています。この三つの学びについての見解を、農作業に喩えて説いています。
問題に向き合う人、答えに向かう人
本記事は「雑阿含経巻第28-785」の内容をもとに作りました。苦という問題に向き合い、その原因をよく見る事。そしてどうすれば解決するのか、具体的にどのように対応すればいいのか。よく観察して考えなさい
善き知識・善き友達
本記事は「雑阿含経巻第27-726」の内容をもとに作りました。善き友達がいるという事は、修行の半ばではなく、その全て。
言っている事は同じでも中身が違う
本記事は「雑阿含経巻第27-713,714」の内容をもとに作りました。すべき時、すべきでない時。その時その時でやっていい事と悪いことがあります。たとえ同じ行動をしていたとしても、同じことを言っていたとしても、それを間違えれば、それは異なるものでしょう。
心に育つ樹|ニグローダの樹のたとえ
本記事は「雑阿含経巻第26-708」の内容を基に作りました。私達の心の中では、樹が育っていく。
仏法の教え方の違い|乳母のたとえ
本記事は「雑阿含経巻第26-685」の内容を基に作りました。伝えたい事は同じでも、伝え方は千差万別。弟子への伝え方の違いを、乳母と赤ん坊に喩えて説いています。
罠にかかった猿のたとえ
本記事は「雑阿含経巻第24-620」の内容を基に作りました。罠に捕らわれてしまい身動きがとれなくなってしまった猿のように、私人間も捕らわれ縛られてしまうことがある(無縄自縛)
曲芸師の師匠と弟子のたとえ話|自らを護るものは他を護る。他を護るものは自らを護る。
「雑阿含経巻第24-619」の内容が基に作りました。自分を護るということは、他者を護ること。他者を護るということは、自分を護るという事。そのどちらかだけでは成り立たない。
修行者は自己を調理する善き料理人
本記事は「雑阿含経巻第24-616」の内容を基に作りました。自己を調理(ととの)える。自分を大切にするってことは、なにも自分だけを大切にすることってことだけじゃない。自己を調えることで、他者から大事にされるようになる。
大丈夫とは?|普段から使っている仏教用語、古い経典にも載っています。
「雑阿含経巻第22-614」の内容が基になっています。「大丈夫!」と普段何気なく使っている言葉は仏教由来の言葉です。自己の身心をよく観察し、考察し、よく知る。これが「大丈夫」という意味です。
黒い牛と白い牛|シッタラ(質多羅)長者
「雑阿含経巻第21-572」の内容が基になっています。黒い牛と白い牛ですが内容は「卵が先か鶏が先か」といったような話です。ずっと昔から人類は同じようなことで考えてしまうのですね。
女性修行者に誘惑されるアーナンダ(阿難)の話
「出典:雑阿含経巻第21-564」アーナンダ(阿難)に恋をしてしまった一人の女性修行者。アーナンダへの想いから彼女は大胆な行動に打って出ます。彼女の誘惑に対してアーナンダさんはどう応えたのか?
欲によって欲を断ず|アーナンダ(阿難)の説法
「出典:雑阿含経巻第21-561」私達は欲に振り回されることがあります。この欲を断ずるにはどうすればいいのでしょうか。アーナンダ(阿難)は答えます。欲を断ずるには欲が必要です。欲が有るだけでは、欲望に振り回されるし、逆に欲を無くしても欲は無くならない。欲が有るから欲は無くなる。矛盾するようでその通り。
困ったお爺さんの話|カッチャーナ(迦旃延)の対応
「出典:雑阿含経巻第20-547」ある日「私が一番の年長者なんだから一番偉いんだ!」と、一人の老年修行者がやってきた。お釈迦さんの弟子達であるカッチャーナ(迦旃延)の対応。
指摘する際の心得、指摘される際の心得|舎利弗(サーリプッタ)と仏陀(お釈迦さん)の会話より
「出典:雑阿含経巻第18-497」他の人の過ちを指摘する時、される時、どんなことに気を付けたらいいのか? 仏教で説かれる、五つの事。
兵士と信者の言い争い|素晴らしい教えでも使い方を違えば本来の意味を失う
「出典:雑阿含経巻第17-485」大事なことを伝えたい。でも私の伝えたい事を理解しようとしてくれません。世の中の人達は、理解せずに言い争い、互いに否定しあうネタにしてしまう。どんなに素晴らしい教えも道具も、使い方を誤れば本来の意味を見失う。
点ではなく線や面のように、隙間なくつなげて見なさい。
「出典:雑阿含経巻第15-404」大事なことは、点と点で考えずに、線や面で見るように心がけなさい。立体に見るよう心がけなさい。隙間なく見るよう心がけなさい。大林の木々に隙間なく生い茂る葉の如く、学んで下さい。
第二の矢のたとえ|仏弟子と凡夫(仏弟子でない人)の違い
「出典:雑阿含経巻第17-470」仏教用語「五蘊(色・受・想・行・識)」の中の「受」ついて、お釈迦さんの解説が、このお経の中に載っています。第二の矢のたとえ話を用いて語られる「受」のお話です。
風のたとえ|仏教の基礎「四諦」の教えについて
「出典:雑阿含経巻第17-471」仏教の基礎の教え「四諦」は、火や風などのたとえから考えるととてもイメージしやすいです。お経の中でも、よくたとえ話がされているので、それら別々のたとえ話あわせて考えると、また理解が膨らみます。
すべては燃えている|煩悩を火に喩えて
「出典:雑阿含経巻第8-197」仏教で煩悩を火に喩えて話されることが多いですが、その一例です。貪欲の火によって燃えている。怒りの火によって燃えている。愚かの火によって燃えている。一切は燃えている。
The analogy of Chick and Egg & Lumberjack
The following  is based on the contents of "Saṃyukta Āgama Sutra 10-263". It makes the content of sutras conversational like a group chat. Buddha and his disciples are talking.
前世の「業」の話はやめなさい|仏教でいう<業>とは?
「出典:雑阿含経巻第16-414」「業」という言葉は、よく勘違いされやすい仏教用語の一つです。普段何気なく知っているつもりでいる業は、果たして仏教で使われていた「業」の意味なのでしょうか? 実は前世などを語る風習の業と仏教の「業」の意味は違います。
無益な争論4|豪華か貧相か、多いか少ないか
「出典:雑阿含経巻第16-415」お釈迦さんはあえてそのことについて答えない。お経の中にその答えは記されていない。答えが無いことで議論が熱くなって、争ってしまう。そんな弟子達に向けるお釈迦さんの応え(対応)は?
無益な争論3|知識が多いか少ないか、頭が良いか悪いか
「雑阿含経巻第16-412」をもとに、この動画や記事をつくりました。お釈迦さんはあえてそのことについて答えない。お経の中にその答えは記されていない。答えが無いことで議論が熱くなって、争ってしまう。そんな弟子達に向けるお釈迦さんの応え(対応)は?
無益な争論2|強大か弱小か、強いか弱いか
「出典:雑阿含経巻第16-413」お釈迦さんはあえてそのことについて答えない。お経の中にその答えは記されていない。答えが無いことで議論が熱くなって、争ってしまう。そんな弟子達に向けるお釈迦さんの応え(対応)は?
無益な争論|無限か有限か、有るか無いか
「出典:雑阿含経巻第16-408」お釈迦さんはあえてそのことについて答えない。お経の中にその答えは記されていない。答えが無いことで議論が熱くなって、争ってしまう。そんな弟子達に向けるお釈迦さんの応え(対応)は?
良い医者のたとえ|「四諦」という教えについて
「出典:雑阿含経巻第15-389」仏教の基礎の教えの内の一つ「四諦」。この四諦のたとえ話である「良医のたとえ」は知る人ぞ知るお話です。
薪をくべる たとえ話|お経に載っている仏教用語の解説「取」
「出典:雑阿含経巻第12-285,286」仏教用語「取」について、阿含経の中でどのように説かれているか。お釈迦さんがたとえ話を用いて説いています。所有欲、手に入れるということがどういうことなのか。考えてみましょう。
煩悩について|草木のたとえ
「出典:雑阿含経巻第12-283」お経の中にあるよる仏教用語の解説。「煩悩」についてお釈迦さんが草木のたとえを用いて説いています。
水の流れのたとえと牛飼いの話|「何事にも捕らわれない」の勘違い
「出典:雑阿含経巻第43-1174」阿含経にあるお釈迦さんと在家者さんのやり取り。世間のしがらみを捨て、今の牛飼いの仕事を放棄して、すぐにでも弟子入りをお願いしようとするナンダさんにお釈迦さんはどのような対応をしたのでしょうか?
正しい事実の使い方|無常という教えは絶対の真実なのだろうか?
「出典:雑阿含経巻第2-35」阿含経というお経の中で語られる無常という仏教用語の解説。「無常(あらゆるものは変化している)という教えは絶対の真実だ」と断言してしまうことは、本当に正しいことなのだろうか? アヌルッダさん、ナンダさん、さん達の「無常」に関する議論。
「正見(正しく見る)」とは?|お経に載っている仏教用語解説
「出典:雑阿含経巻第12-301」お釈迦さんがいう「正見(しょうけん)」とは、どういうことなのでしょうか? 例えば「有」「無」。とりあえず、この二つの分け方から考えてみましょう。お釈迦さんとカッチャーヤナゴッタさんとの対話から
続・琴のたとえ|「どうしたら良い音が出るのか?」から考える
「出典:雑阿含経巻第9-254」「琴はどうしたら良い音が出るのか?」から考えるソーナさんの説法。未だに、煩悩を尽くさず、悟りを得ていない。でもその人が、学びの道にあって、学ぼうという向上心を持ち続けているのならば、もう学ぶということは成就し成し遂げています。
琴のたとえ|「才能がないから弟子やめる」とお釈迦さんに相談したソーナさんの話
「出典:雑阿含経巻第9-254」修行を人一倍頑張っていたソーナさん。しかし、全く悟ることができません。「もう才能がないから私には無理。弟子をやめたい」お釈迦さんはに相談にいきました。そこで語られたのは、琴のたとえ話でした。
無明とは?|サーリプッタの解説
「出典:雑阿含経巻第9-251」仏教の言葉「無明」は、阿含経の中でどのように説かれているか。知るとは何? 無知とは何? 明らかでない、知らないとも理解されるこの言葉について、お経のサーリプッタさんの言葉と共に考えます。
計る病|考えることでも悩みが生まれる。それは「計る」が原因かも?
「出典:雑阿含経巻第8-227」雑阿含経の中にある「計る」についての話。「考える」と一言で言っても、その考え方には色々なものがあります。その中で、お釈迦さんは、計るは病と説いています。考えることについて、あまり考えすぎないように、真剣に考えてみましょう。
三脚のたとえ|老いや死の原因は? 自分のせい、それとも他のせい?
「出典:雑阿含経巻第12-288」雑阿含経にあるカメラの固定台としても使う三脚のたとえ話。「そうじゃない」と言葉を聞いた時、全部が否定されていると感じるならば、ひょっとしたら、それは相手の言葉を全然違う意味で受け取っているのかもしれません。
天眼の異名は失敗を活かした洞察力あった!?「アヌルッダ(阿那律)の不眠不休の誓いと洞察」
「出典:増一阿含経巻第31-5」天眼第一とも称されるアヌルッダ(阿那律)さん。その失敗を教訓にして、仏道の学びへと変えた洞察力こそ、天眼なのかもしれません。(原文をあたってみると、お釈迦さんやアヌルッダさんとのやり取りは、とても人間味を感じ、親しみが湧いてきます。)
煩悩が尽きるとは?|ヒナと卵・木こりのたとえ
「雑阿含経巻第10-263」の内容が基になっています。「悟る」「煩悩が尽きる」それは何なのでしょう。何を知り、何を見る人が、煩悩を尽くすというのでしょうか。ヒナとたまごのたとえ、きこりのたとえから考えてみましょう。

仏教トーク登場人物

お釈迦さんの弟子達や周囲の人々「仏教トーク(経典内)の登場人物」
仏教トーク内で出てくる登場人物は実際に経典にいる人物です。(弟子1・2・A・Bは例外で、経典内の比丘・比丘尼の言葉を話す場合や補足説明、著者の代弁など様々な役割を担っています)ここでは、仏教トークの登...

私が仏教トークを作る理由

仏教トークを作っているのには、理由があります。それは私と仏教との出会いが関係しています。私と仏教との出会いは、学生の頃でした。

私は学生の頃にネット・ゲーム依存に陥った経験があります。

誤解のないように最初に言っておきますが、私は今でもゲームが大好きです。やりすぎないように、自分ルールを設けて、steamやパソコンで楽しんでいます。

ただ学生の頃は、ネットゲームに、かなりハマっていました。慣れない一人暮らしに加え、大学生活で少し孤立していた私にとって、ネットゲームは数少ない居場所でした。

最初は、楽しかったんです。しかし、日に日にゲームする時間は増していき、気が付けば、抜け出せなくなっていました。ほぼ家にひきこもる日々を過ごしていました。

今では検索すると「ゲーム障害」という名前までついていますが、当時はまだスマホが無い時代。パソコンでネットゲームをしている人も少数派だったのではないでしょうか。

2019年5月、世界保健機関(WHO)は「ゲーム障害」を新たな疾病として認定しました。その定義は①ゲームをする時間や環境をコントロー ルできない、②ほかの生活上の関心事や日常の活動よりゲームを優先する、③健康を損なうなど問題が起きているのにゲームをやめない、またはエスカレートさせる――との3条件を満たしたうえで、学業、仕事、家庭・社会生活に著しい障害がある状態が1年以上続くというものです。重症ならば1年以内でも該当します。

読んで役立つ健康情報誌こまどより引用

私はお医者さんにかかったわけではないので、診断されたわけではありませんが、症状はドンピシャです。

あの頃の自分の事を思い返すと、とても複雑な感情が湧いてきます。

依存していた頃の私は、起きてから寝るまで、1日中パソコンの前で、ネットゲーム漬けの毎日を送っていました。

生活は乱れ、気がつくと、起きた時にパソコンの電源をつけずにはいられない、落ち着かない……。そうして内面までもが変わっていく。

焦燥感と劣等感、不安と自己嫌悪。生活の崩れ、身体の不調。

なんだか自分自身が壊れていくような、今のこの苦しみから抜け出したいけど、なかなか抜け出すのは容易ではありません。

抜け出そうと歩き出すものの、また元の木阿弥。一歩踏み出しては、二歩下がり、三歩歩き出しては、また後退する。これもまた苦しいことでした。

その脱却の過程で出会ったのが、図書館でたまたま手に取った古いお経の事が書かれた仏教書でした。

どうして数多の蔵書の中から、この書を手に取ったか、その理由も記憶にありません。しかし、書かれている内容がとても気になって、結局最後まで読んでいました。

著者は、増谷文雄さん。そこから他の著作物も読み始め、そこから、お経に書かれているお釈迦さんの話をたくさん知りました。(※読みやすさでは下記の方がおすすめ)

禅僧がおすすめする仏教学の本「増谷文雄著作集」お経を学びたいならまずはこれ
私がお経を学びたいと思う人たちにおすすめするのが、増谷文雄さんの本です。私にとって、増谷文雄さんの本は「仏教ってこんなにおもしろいものなのか!」と学生時代に思わせてくれた本です。

その時の自分に響く話がたくさんありました。

そしてそれは少しずつですが、ゲーム依存の中で感じていた苦しみを解きほぐす助けとなっていました。

「仏教ってこんなにおもしろい(興味深い)ものなんだ」
「お経ってこんなにおもしろい(興味深い)ものなんだ」

今まで仏教やお経に抱いていたイメージがガラっと変わりました。
このおもしろさを誰かと共有したい。お経の中身をもっと知ってほしい。

これは、僧侶となる動機の一つでもあり、「仏教トーク」を作りはじめた理由でもあります。

ちなみにその先駆けとなったのは「仏教エピソード」です。参考書をたよりに原典をあたって意訳を始めました。

仏教エピソード
お経の一節(エピソード)を抜粋し、翻訳しています。そこに自分自身の考えや感想など(メッセージ)を交えています。

意訳していくうちに、自分の頭の中で話が膨んでいきました。自分が経典の会話に交ざるならこんな会話が成り立つかもしれない。経典中に書かれている会話の文脈から感じること、補足、背景など、自分の言葉にして書きたいことが増えました。

試しに書いてみたらどうなるだろうと書いた結果生まれたのが「仏教トーク」です。一応弟子1が直感的な私、弟子2が理屈っぽい私、分身みたいな感じです。

ちなみにセリフだけでしゃべるこのLine風会話形式は、禅問答の形式から着想を得ました。

ただの翻訳ではなくなってしまいましたが、禅僧の私が原始仏教の経典を読むとどんな風に映るのか。皆様と共有できれば幸いです。

 

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