仏教用語

法の種

異比丘・異比丘尼について

「出典:雑阿含経巻第21-561」今回はお釈迦さんはお休みです。アーナンダさんの説法になります。私達は欲に振り回されることがあります。この欲を断ずるにはどうすればいいのでしょうか。
法の種

瓶沙王と優陀夷について

本記事は、下記の仏教トークの動画編集後記として書きました。登場人物「兵士と信者」に関して仏教トークの中で登場する人物の中に兵士と女性信者がいます。「原文をみてもそれにあてはまるような登場人物がいない!...
仏教トーク

比べない、比べられない、人の事

戒律を守る人と、守らないけれど聡明な人。お釈迦さんは二人を同じように評価しました。「比べることは苦しみになる」——その言葉の意味を、対話を通じて考えます。
仏教トーク

愛することと、怒ることは、そんなに違うのだろうか

好きなものを愛し、嫌いなものを怒る——それは当然のことでしょうか。でも愛から怒りが生まれ、怒りから愛も生まれる。その先にお釈迦さんが示したのは、意外な視点でした。
仏教トーク

急がないけれど、手は止めない──三学(戒・定・慧)と農業のたとえ

戒・定・慧の三学を、お釈迦さんは農業のたとえで語ります。種を植えれば実は成る。しかし、それは何もしないということではない。時に随って耕し続けることと、焦ることは、どう違うのでしょうか。
仏教トーク

答えを探すより、まず向き合うこと──お釈迦さんの言う「正しく見る」とは

八正道の「正見」には二種類あるとお釈迦さんは言います。正解を目指すのか、苦という問題に向き合うのか。雑阿含経の対話をもとに、その違いを考えます。
仏教トーク

修行の心得:お釈迦さんと弟子たちの対話から学ぶ身と心の調え

七覚支を通して学ぶ修行の心得。「煩悩を滅しなさい」「修行しなさい」――同じ言葉でも、心や身体、行いのあり方によって意味は変わります。お釈迦さんと弟子たちの対話から、心と身体の調えるヒントを見ていきましょう。
仏教トーク

なぜ同じ師が、人によって教え方を変えるのか——乳母のたとえ

「私にばかり小言を言う」——弟子の不満にお釈迦さんが語ったのは、乳母と赤ん坊のたとえでした。手をかけること、手放すこと。その先に何があるのか。
仏教トーク

罠にかかった猿のたとえ

片手が罠にかかると、外そうとしたもう片方の手も捕まってしまう。お釈迦さんはこの猿のたとえで、縄もないのに自らを縛る「無縄自縛」の状態を語ります。雑阿含経のたとえ話を会話形式で。
法の種

無明と愚癡について

無明と愚癡について「無明むみょう」「愚癡ぐち」は仏教の煩悩のうちの一つ。今回の仏教トークを編集する上で無明と愚癡の細かいニュアンスについて気になったので、少し調べてみた。基本的に、この無明と愚癡は、仏...
法の種

あらゆるものはそれを教えてくれる先生である。

アメリカ禅センターいた時の事だ。一緒に禅センターで過ごしている方と仏教の話をしていた。一通り仏教の話が終わった後、その方からこう問われた。「who is your teacher?(あなたの師事してい...
法の種

○○第一という異名について

弟子の○○第一という異名について
仏教トーク

修行者は自己を調理する善き料理人

自分を変えようとするとき、あなたは「外」と「内」のどちらを見ていますか?雑阿含経に残る善き料理人のたとえ話を通して、お釈迦さんが修行者に語りかけます。お釈迦さんと弟子の対話形式でたどります。
法の種

漏尽について

漏尽という仏教用語について
法の種

あらゆるものはそれを教えてくれる先生である。|仏教用語諸法実相

「諸法実相」は辞書を引いても腑に落ちない言葉の一つ。文字を分解し、チューラパンタカの話と重ねながら、禅僧がこの言葉と向き合ってきた道筋をたどります。
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