本記事は「雑阿含経巻第20-547」の内容を基に作りました。
困ったお爺さんの話
皆さん、こんにちは。
こんにちは。
ちょっと失礼しますよ。どっこらしょっと……。
いやぁ年を取ると足腰が弱ってきて大変ですな。
そうなんですか。
それはそうと、何故君達は座らないのかね。
この私が座っているというのに。
え?
何故、年長者の私の所に頭を下げに来ないのかと言っておるのだよ。
えっと……
私は君達と比べてはるかに長く生きている。
老師と言ってもよい。わかるかね?
皆さん、こんにちは。
ああ、君も。
ここの者達は老師に対してきちんと挨拶しないのかね?
もちろん、挨拶しますよ。
そこにいる彼らは、私の所に挨拶しにこなかったぞ!
ん?
どういうことですか?
挨拶はしたのですが……。
挨拶というのは、若者のほうから年長者の席までやってきて、声をかけにくるべきだと言っているんだ。老師には敬意をもって接することはしないのかね?
そんなこともここでは教えていないのかね?
老師には敬意を払う。それはその通りだと思います。
他の皆さんもちゃんと教わっていますとも。
何を言っているんだ。
見る限り私より年上の者はいないではないか。
私の次に上なのは……君か?
そのようですね。
何故、君は教えないのだね。皆に私の所に挨拶にくるように言いなさい。よくそれで「教えている」なんて言えるんもんだ。
もし80歳や90歳の老人になろうとも、見た目だけ老いただけでは老師とは言えませんよ。
私が年長者なんだから私が一番偉いんだ!
偉いんだから敬うべきだろう。
そのような幼稚な事をおっしゃられるようでは老師とは言えません。
私のどこが幼稚だというのだね……。
そんなこと言っているとさすがの私も怒りますよ^^
もう怒っておられますよ。
まずはその怒りの根本にあるものを見つめ、その所から離れること考えたほうがいいのではないでしょうか。
いやいや、勘違いしてもらっては困る。私は全然怒ってなんていないよ。なんせこの年で修行しているのだから。
君は、こんなに年老いてから修行の道に入った私を偉いとは思わないのかね?
仮に25歳ほどの若者であったとしても、老師にふさわしい行動していたら、もうそれは、師の一人として数えてもいいでしょう。
君は私を老師として認めないというのかね?
そもそもあなたは誰かに認められたいのですか?
あなたのその欲の根本にあるものは何ですか?
挨拶を強要する前に、そこから考えられた方よろしいのではないでしょうか。
いや、君も年下のくせに生意気なことをいうもんじゃないよ。
もっと従順なほうがもっと可愛がられるよ。
可愛がられるとは一体何の話をしているのですか?
だからね。私の豊富な人生経験からいうとだね———
可愛がられたいとか認められたいとか、その根本にあるものを見つめなさいという話を私はしているのです。
君は若いからまだ分からないことが多いかもしれないけど、そんなんじゃこの先やっていけないないよ。私が若い頃なんて、そりゃもう大変で。
わかる?
わからないでしょう。
そうですね。
あなたが何をおっしゃりたいのか、よくわかりません。
ほらね。わからないでしょう。そうなんだよ。
若い者には分からないんだよ。この老翁の考えってものがね。
私達の師であるお釈迦さんは、私達にできるだけ伝わるようにとご指導くださいます。あなたのようにただ闇雲に「言う通りしろ」と命令するようなことはしません。
どうせ、君の言う師とやらも私より若いんだろう?
私を老師と呼ばずに若いやつを師というのもどうかと思うが。
会ったこともないのに、どうしてあなたがお釈迦さんの事をどうこう言えるのですか。そんなこと言えるはずもないでしょう。
それは私が年長者だからだよ。私が上。一番「上」だからだよ。
君達「下」の者は素直に従っておけばいいんじゃないかね。
少なくともお釈迦さんは、私達弟子のことを、善き友と呼んでくれます。でもあなたはどちらが上とか下とか、老いているとか若いとか。
そういう意識から少し離れたほうがいいと思いますよ。
君は若いけど中身は成熟していると言いたいのだろう。
分かる分かる。私も若い頃、そう思っていたこともあったから。
ですから、熟練してるとか、未熟とかいう話をしているわけではないと言っているではないですか。
訳が分からんことをいうな。どっちが優れているか劣っているか、ずっとその話をしていたではないか。
……。
あなたはまず、そのあなた自身の濁りから離れるべきですね。
私のように清濁併せ持つ人間は、濁りなどには負けないのだよ。
私がここの指導に当たればきっとそれが皆にも理解できるだろう。
……今日の所はもうお引き取り下さい。
それは私はここに必要ないということか?
今日の所はもうお引き取り下さい。
ちょっと待ってくれ。わかった。
私も少しばかりいう事が青臭かった。
君は若いわりには熟練された考えをお持ちのようだ。
ですから、熟練してるとか、未熟とかいう話をしているわけではありません。
今日の所はもうお引き取り下さい。
ではせめて還俗(※1)すべきだと君の口から言ってくれないだろうか?
このまま帰ったら世間の者が騒ぎたてるかもしれんし、私はまだ修行者になるような時ではなかったのかもしれんですから。
あなたは<時>というものをよく知りなさい。
補足情報
- 出典:雑阿含経巻第20-547
(五四七)如是我聞一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。尊者摩訶迦旃延。在婆羅那烏泥池側。與衆多比丘。集於食堂。爲持衣事。時有執杖梵志。年耆根熟。詣食堂所。於一面柱杖而住。須臾默然已。語諸比丘。諸長老。汝等何故。見老宿士。不共語問訊恭敬命坐。時尊者摩訶迦旃延。亦在衆中坐。時尊者摩訶迦旃延。語梵志言。我法有宿老來。皆共語問訊。恭敬禮拜。命之令坐。梵志言。我見此衆中。無有老於我者。不恭敬禮拜命坐。汝云何言。我法見有宿老。恭敬禮拜。命其令坐。摩訶迦旃延言。梵志。若有耆年。八十九十髮白齒落。成就年少法者。此非宿士。雖復年少年二十五。色白髮黒。盛壯美滿。而彼成就耆年法者。爲宿士數。梵志問言。云何名爲八十九十髮白齒落。而復成就年少之法。年二十五膚白髮黒盛壯美色。爲宿士數。尊者摩訶迦旃延語梵志言。有五欲功徳。謂眼識色愛樂念。耳識聲鼻識香舌識味身識觸*愛樂念。於此五欲功徳。不離貪。不離欲。不離愛。不離念。不離濁。梵志。若如是者。雖復八十九十髮白齒落。是名成就年少之法。雖年二十五膚白髮黒盛壯美色。於五欲功徳。離貪離欲離愛離念離濁。若如是者。雖復年少年二十五膚白髮黒盛壯美色。成就老人法。爲宿士數。爾時梵志。語尊者摩訶迦旃延。如尊者所説義。我自省察。雖老則少。汝等雖少。成耆年法。世間多事令便請還。尊者摩訶迦旃延言。梵志。汝自知時。爾時梵志聞尊者摩訶迦旃延所説。歡喜隨喜。還其本處。(大正No.99, 2巻141頁c段16行 – 142頁a段17行)
- 国訳一切経2巻131頁
用語説明
- 還俗
- 出家して僧や尼僧となるが、もとの俗人に戻ることを還俗という。つまり還俗とは僧や尼僧をやめるということ意味する。
- 僧侶が戒律を破ったなどの理由で俗人に戻されることを還俗といい、自ら僧侶をやめるのを帰俗といって区別する場合もある。
- 日本では一般的に出家とは仏門に入ることを想像しがちだが、古代インドのお釈迦さんの時代は、出家とは修行者になることを意味する。道を求めて哲学的思索や苦行などさまざまな修行する人を指した。沙門とも呼ばれる。(仏教以外にも様々な修行者がいた)
- 有力な沙門のもとには多くの弟子が集まったが、お釈迦さんもそのような沙門の一人である。
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