「いただきます」「ごちそうさま」に込める意味「五観の偈」

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「いただきます」「ごちそうさま」

そして手を合わせる。

食事時の挨拶ですが、皆さんは、どんな意味を込めていますか?

私が、真っ先に思い起こすのは「五観の偈」の一番目の言葉です。

五観の偈

五観の偈は、道元禅師が食堂(僧堂)での作法について記した『赴粥飯法』という書物に書かれています。

ひとつにはこう多少たしょうはかり、来処らいしょはかる。

ふたつにはおのれ徳行とくぎょうの、全欠をぜんけっ(と)はかっておうず。

つにはしんふせとがはなるることは、貪等とんとうしゅうとす。

つにはまさ良薬りょうやくこととするは、形枯ぎょうこりょうぜんがためなり。

いつつには成道じょうどうためゆえに、今此いまこじきく。

①功こうの多少たしょうを計はかり、彼かの来処らいしょを量はかる。

今、目の前にある食事。

それが、どれほどの労力を尽くして成されたものであるかを考える。そして、どこからどのようにしてやってきて、今ここにあるのかを考える。

そういった意味があります。

これは、仏教の「縁起」の教えを参考にすると、理解しやすいでしょう。

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物事には全て原因があります。今ここにある食事も魔法にように、パッと出現するものではありません。

お茶碗によそわれた一杯のご飯。

ご飯を炊くには何が必要でしょうか?

もちろんお米が必要です。でもそれだけではないですよね?

水、火(電気)が必要です。ご飯を入れるお茶碗も必要でしょう。

ご飯を炊く際に使うお米は、魔法のように現れますか?

違います。お米が手元にあるのにも様々な要因があります。

お米を作るにも、田んぼ、道具、土や水や太陽も必要です。

苗から育ちますが、その苗ができるには?

実がなるには? 種子ができるには?

受粉するには、虫も必要ですし、風もあります。

もちろん、ご飯を作ってくれる人、お米を作ってくれる人、お茶碗を作ってくれる人、道具を作ってくれる人。様々な人達が関わっています。

言い出すときりがありません。

でも、そんなつながり(関係性)があって、今初めて、この食事が目の前にあるのです。

一つの言葉、動作に込める想い

「そんなこと、ご飯を食べる前にいちいち考えてられないよ!」

実際、私もこのように反論された経験があります。

「そうですね。その通り、いちいち考えられません。だからこそ、そういう想いや意味を、短い「言葉」や簡単な「動作」に込めているのではないか、と私は考えます」

きっとそれが「いただきます」「ごちそうさま」なのでしょう。

きっとそれが「手を合わせる」という動作なのでしょう。

「いただきます」「ごちそうさま」の意味や理由を考える上でも、とても参考になるのではないでしょうか?

やり方は千差万別、でも意味(心)は通じている

『赴粥飯法』を書いた道元禅師は、鎌倉時代の方ですか、すでにこの頃から、日本では、このような観点を思い起こして、食事をとっていた人達がいたわけです。

「いただきます」や「ごちそうさま」が日本で一般的に言われるようになったのは、一説には大正から昭和にかけてと言われています。

食事の挨拶として、日本では今ではあたりまえの風景ですが、海外ではあまり見かけませんでした。

でも、似たような表現はたくさんありました。

例えば、イギリスに留学していた頃、似たような表現で、フランス語の「ボナペティ(召し上がれ)」と言われ、英語で「Thank you」と返すことはありました。

また、敬虔なキリスト教徒のお宅では、お祈りをしました。

「いただきます」という代わりに、「手を合わせる」だけの時もあれば、「乾杯!」の掛け声がその代わりとなることもあるでしょう。

あるいは、食べはじめた後に気づいて、そこで箸を一度置いたり、少し頭をさげるだけだったり、食後のコーヒーを飲む静かなひと時に、ふと思いおこす。

いろんな方法を見たり、聞いたりしてきました。だから、やり方は一つではありません。

でも、そのいろんなやり方の中心には、この想い(意味)がありました。

食べ方が変われば、生き方が変わる。

それが、どれほどの労力を尽くして成されたものであるかを考える。そして、どこからどのようにしてやってきて、今ここにあるのかを考える。

そこに敬意や感謝が生まれ、文字通り、その大切さをかみしめる。それは何も食事の時だけではなくて、「生きる」ということにもつながっています。

『赴粥飯法』の冒頭にこのような言葉があります。

経に曰く「若し、じきにおいてとうならば、諸法しょほうもまた等なり。諸法等ならば、食においてもまた等なり」

まさに、法をして食と等ならしめ、食をして法と等ならしむむ。

経に曰くの経は『維摩経』というお経ですが、要するに、仏法と食は等しいということです。すべての事は、食につながっているとも読むことができます。

私達は、食べなければ生きていけない。生きることに食べることは欠かせない。

食べることは生きることなら、食べ方が変われば生き方も変わる。

食べることの大切さをかみしめることを知れば、生きることの大事もまたかみしめている。

「なるほど。こうつながっているのだな」と、今改めて感じます。


「①こう多少たしょうはかり、来処らいしょはかる」と「いただきます」について書いたのですが、せっかくなので、他の所についても書いておきます。

②己が徳行の全欠を忖って供に応ず。

「自分が、この食事をとるに相応しい行動や生活をしているかどうか考えましょう」と読むことができます。

上述したように、目の前にあるその食事は、色々な人々の手によって、今はじめてここにあります。

携わった人、それぞれに想いがあり、生活(行動)があります。その一人一人の想いや行動が集結して、食事となって今目の前にあります。

自分の行動や想いも、やがて何らかの形になって誰かのもとに届きます。

自分の生活や仕事はそれ単体で成り立つものではありません。様々なつながりによって成り立っています。

仕事も生活も、そうした人々の行動の循環によって成り立っています。水が雲や雨なったり、また川海になったり、はたまた、生物の一つ一つの体内をめぐるように。水が循環しているようなものですね。

我田引水という言葉がありますが、自分だけの利益を確保しようと、その水の循環を止めてしまうと、他の誰かのもとに水が届かなくなってしまいます。

逆に自分だけ我慢して、その水が自分に届かないのも、その循環を止めてしまいます。

②は、そういった好循環を巡らしていくという意味だと、私は考えています。

③心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす。

まずは、とんなどの説明をしましょう。(フリガナはミスではありません)

貪欲とんよく」「瞋恚しんに」「愚痴ぐち

これらは煩悩と呼ばれるものの中で、最も気をつけなければならない三つの煩悩です。この三大煩悩をひとまとめして「三毒」と呼んでいます。

一般的に「貪欲=欲望」「瞋恚=怒り」「愚痴=無知」と理解されています。各々詳しくは以下を参考にしてください。

仏教エピソード⑬「水と欲」
考えてみれば、人に欲望があるのは当たり前。それは、井戸に水があるようなものです。もし井戸に水が無ければ、井戸はどうなるのでしょうか? もし人に欲が無ければ、人はどうなるのでしょうか?
仏教エピソード⑭「怒ったっていいことない」
怒ったっていいことない。わかっちゃいるけど止められない。 まずは怒りを無くすことより、怒りのありように目を向けてみましょう。摩擦から学ぶ怒り。
仏教エピソード⑯「愚か」
「愚か」とは何か? 私がこのエピソードで紹介している最初の言葉に感銘を受けたのは、海外での生活に馴染めず、困っていた時でした。「自分は正しい。間違っていない」自分もそう決めつけて、苦しい思いをしたのを...

貪等はこれらを指していると考えられます。

ですから「心が迷い苦しみのを防ぎ、過ちから離れるには、この三大煩悩が根本にあるので気をつけなさい」と読むことができます。

特に食事の際は「我さきに! もっと食べたい! もっとうまいもん寄越せ!」というように、食欲には気を付けましょうということかもしれませんね。

仏教エピソード⑤「食いしん坊な王様」
仏教の修行は特別なものではありません。むしろ私達の身近な出来事としっかりと結びついています。例えば、食事もそのうちの一つです。

④正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり

良薬とは何を指すと思いますか?

食事のことです。

形が枯れるというのは、私達の身体が枯れて朽ちていってしまうことを指しています。

「私達の身体が枯れて朽ちないように、良薬という食事を頂いている」と読むことができます。

違う視点から考えると、空腹も病気の一つと言っても過言ではありません。

空腹も苦しいですよね? 病も苦しいですよね?

この苦というものを学び考えることは、仏教に欠かせない一つの要素でもあります。

良い医者のたとえ|「四諦」という教えについて
「出典:雑阿含経巻第15-389」仏教の基礎の教えの内の一つ「四諦」。この四諦のたとえ話である「良医のたとえ」は知る人ぞ知るお話です。

空腹を放置しておけば餓死します。それぐらい食事は私達にとって欠かせないものだということを忘れてはいけません。

⑤成道の為の故に今此の食を受く

私達は食べなければ生きていけません。生きるために食べなければいけません。

同じく「仏道を成すためにこの食事を受けていると読むことができます。

「成す」という言葉は、物事を成し遂げるという意味でもありますが、その考え方も間違いではありませんが、その意味だけで受け取ることには私は少し消極的です。

「仏法の為にこの身を捨てる。この身の命を惜しまない」

「この身の為に仏法を捨てる。ただこの身の命を惜しむ」

前者と後者、皆さんはどのように捉えるでしょうか?

前者を肯定して、後者を否定しますか?

もしそうだとしたら「為法捨身」があることは納得できても、「為身捨法」がることは納得できないでしょう。

仏教エピソード⑰「筏の如く」
「筏を担ぐ人?」「そんな奴いるわけがない!」いやいや、誰もがやってしまいがちなんです。筏から学ぶ仏法。たとえ大事な教えでも必要とあらば捨てなさい。仏教ならではのエピソードをご紹介します。

食事を食べなければ仏道を成すことができないという事は、食事するその道にも仏道が成立しているということも忘れてはいけないことだと私は考えます。

食べることは生きること。食べ方は生き方に影響する。そこにも仏道が成立している事実があります。

仏教エピソード⑤「食いしん坊な王様」
仏教の修行は特別なものではありません。むしろ私達の身近な出来事としっかりと結びついています。例えば、食事もそのうちの一つです。

「仏道の成立」この故・・・に私達は食事を頂いているのです。

『赴粥飯法』という書物について

赴粥飯法ふしゅくはんぽうは、粥や飯(つまり食事)に赴く際の作法が事細かに書かれた書物です。鎌倉時代、道元禅師によって書かれました。

この書は、順を追って事細かに作法が書かれており、現代の曹洞宗の僧堂(修行道場)でも、同じ作法でご飯を食べることがあります。僧堂飯台そうどうはんだいといいます。

私も僧堂飯台の経験がありますが、その時は赴粥飯法という書にあまり目を通したことがありませんでした。今ではすごくもったいなかったと思います。

実際、書物に書かれていることが、自分の経験として思い出されるので、おもしろいです。そして、細かすぎて、失敗しないようにやることだけで精一杯だった作法の一つ一つにちゃんと意味があることを知りました。

作法は失敗しないように気をつけるのではなく、どんな想い(意味)が込められているのか、経験の上でも、知識の上でも、智ることが大事。

「赴粥飯法、もっと早くにちゃんと読んでおきたかった!」と思うのが正直なところです。

どんな本か気になる方は、今でも単行本で手に入るので、そちらをご覧ください。

ちなみに「典座教訓てんぞきょうくん」は、作り手(典座)の教訓ですね。

道元禅師が、如何に食を仏道として大事にしているか、伝わってきますね。

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