本記事は「雑阿含経巻第12-301」の内容を基に作りました。
正見って何?
お釈迦さんがおっしゃる「正見」とは、どういうことなのでしょうか?
漢字から読み取るなら、「正しく見る」ですかね?
「正しく見える」でもいいんじゃない?
んー。「正しい見方」「正しい見え方」とか、他にもいろんな読み方ができるね……。
「見」も色んな読み方できるけど、「正」はもっとわかんないよ。
「正しい」としか、読みようがなくない?
いや、そもそも、「正しい」って何が正しいのさ?
例えば?
例えば、私達、お釈迦さんによく質問するじゃない?
今回みたいに質問する人にも、くっついて、話きいたり、質問したりするじゃない?
そだね。
お釈迦さんはいつも答えてくれるし、いつも勉強になるから、素直に疑問に思ったことを質問するのは私は正しいと思う。
うんうん。
でも、質問するのは、お釈迦さんの手を煩わせることにもなるって思う人もいるじゃない?
ああ、だから、質問するのはなるべく控えた方がいい。そっちのが正しいと思う人もいるね。
確かに、取り込み中の時や余裕がない時なんか、本当に迷惑になりそうなときもあるから、質問を控えるのが正しいというのも、一理あるんだけど……
だからといって、全く質問しないのが正しいってわけでもないと私は思う……
だから、「質問するのが正しい」のか、「質問しないのが正しい」のか、「正しい」って何って話……。
「正しい」って一言で言っても、それって具体的によくわからないね……。
なるほど。ならば、お釈迦さん、もうひとつ加えて尋ねます。どのようにして「正見」を行えばよろしいのでしょうか?
一つご教授お願いいたします。
そうですね。世間の中には、二つに依る所があります。例えば、有・無のように。
「有」に依っていく?
「無」に依っていく?
世間では、漠然と二つの考えに分かれていくということですかね?
その例として、「有」「無」を仮に挙げたわけですね。
もう少し具体的に考えてみましょうか。
何かを手に入れようとする時のことを考えてみてください。
手に入れようとする。「手が出る」とも言いますが、何かが欲しいと思ったら、その目的のものを取ろうとする。そしてそれに触れて、この手の内につかみ取る。それで自分の物にする。
言葉にすると、当たり前の行動もすごくややこしく聞こえるけど、まぁ概ね、「手が出る」ってのはそういうことだね。
そんなとき、この手の内に「有る」か「無い」か。
皆が注目するのは、そこですよね?
手の内に「有る」か「無い」か。
自分の物になったか、なっていないのか。
そこが物事の中心になるというわけですね。
実際の物だけじゃなくて、知識なんかも、物にするとか言いますから、当てはまると思います。
実物だけではなく、知識や考え、あるいは選択肢なんかもかんがえるなら、取捨選択といった方がわかりやすいかもしれませんね。
何かを手に入れようと、手が出る。つかみ取ろうとする。
そして目的のものを手に入れる。
手に入れるとは、手の内に「有る」こと。
逆に、手の内に「無い」ならば、手に入らなかったということ。
手の内につかみ取ろうと手にも力がこもる。
手の内に収めようと計略をめぐらすのも、心が張り詰める。
心も体も、力んでしまいますね。
というか、そもそも、手に入れようが入れまいが、その目的のものは、そこに「在る」のに、なんで、自分の手の内に「有る」か「無い」かが物事の中心になっているの?
なるほど。
そういう考え方もできますね。
自分の手の内に無ければ、「ある」とは思えないのか……。たとえそれが自分の手の外にあったとしても、「ない」と思えてしまうか……。
そのような柔軟な発想は、余裕がなければできませんね。
ましてや、如何に手に入れるか、その策略を巡らすのに集中しているときは、力んでいるときは、そんなこと露ほどにも思わないでしょう。
もともと「在る」のに、「有る」か「無い」かで右往左往するのって、私はただ辛いだけだと思うけどな。
でも手に入れようとする、欲することって、人間を含めて、生き物のあり方でもあると思うよ。
欲するあまりに、右往左往するのは苦しいことだけど、欲するのも人間の本能、人のあり方か。なるほど……。
でもそれって、余裕がなければ見えてこないし、しっかり観察するから見えてくることですね。
何事も生じる時は生じる。滅する時は滅する。
苦も生じる時は生じる。滅する時は滅すると……。
欲も生じる時は生じる。滅する時は滅すると……。
ああ、ならば「在る」といっても、それだって、生じる時は、生じるし、滅する時は、滅しますよね。
手に入れるということに夢中になっていると気づかないけど、そもそも、目的のもの、望むもの、あらゆるものは全て変化している。
つまり、いまそこに「ある」と言ったって、それはいつか壊れるもの、「なく」なるもの。
色んなことが今回の会話からも見えてきますね。
そうして見えることを疑わず、惑わされず、他の知識(先入観や思い込み)に引っ張られず、自ずからと見える。そうして自ずから知る。これが、私が「正見」と呼ぶものです。
手の内に「有る」か「無い」か、それを物事の中心にしない見方が「正見」ってことですか?
力まずに、心も体も力を抜いて、柔軟に物事を見ようってことが「正見」ってことなんじゃない?
どれが答えであるとか、あまりそういうのは言えないのではないですか? 話は全部つながっていると思いますよ。
答えはないと?
でもちゃんとお釈迦さんからのお答えがありましたよね。
お釈迦さんからお答えはありましたが、その言葉自体が答えではありませんよ。その言葉自体に答えはありませんが、ちゃんと見えてくる答えはあると思います。
んー。これも「有る」とか「無い」とかに、執らわれすぎているってことなのでしょうか……。
そうですね。例えば、いまここに「ある」ものは、いつか「なく」なるもの。
それをどちらか一方であると結論づけることで、見えなくなるものもあるのではないでしょうか?
「有」とする者は、「滅」するを見ない。
「無」とする者は、「生」ずるを見ない。
例えば、物で考えてみましょう。身近な物。目の前にあるパソコンでもいいですし、鉛筆やノートなんでもいい。それは「有」であると端から結論づけてしまうとどうなりますか?
いや、いま目の前にちゃんと「有」りますよ。
でもそれはいつか壊れる。いつかは「無」くなるものですよね。
そうです。それが滅する。変化して今の形ではなくなる。今のあり方ではなくなる。
でも「有」と結論づけた人は、「有」と思い込んだ人は、そうやって、それが「無」くなるという事実が見えなくなってしまいます。
逆に、それは「無」であると端から結論づけてしまうとどうなりますか?
いや、だって、ここに「有」るじゃないですか。
いつか「無」くなるのであれば、結果的には全て「無」に帰すということもできるんじゃない?
ならば、いくら有るようにみえても、それは最終的には「無」であると考えることもできるような……
最終的にっていうけど、それは、今、現に、ここに「ある」という事実を否定するっていうの?
そうです。それが生じる。様々なものが変化している中で、今、こここに、こうして、今の形として生じているのです。今のあり方として生じているのです。
でも「無」と結論づけた人は、「無」と思い込んだ人は、そうやって、それが「有」るという事実が見えなくなってしまいます。
「有」と結論づければ、「無」という事実が見えなくなる。
「無」と結論づければ、「有」という事実が見えなくなる。
「有」も「無」も、どちらも事実なんですがね。
その事実が見えなくなるというのは、確かに、正しく見ているとはいえませんね。
最初にお釈迦さんが言っていた二つの依り所って、「有る」とか「無い」とか、そういう結論に引っ張られてしまうってこと?
二つの依り所は、「有」や「無」だけには限りません。一例として「有」「無」を挙げただけですが……。
まぁ、先ほどのように、「有」と結論づけると、「有」に依っていきますし、「無」と結論付けると、「無」に依っていくでしょうね。
依っていく。偏っていく。
偏見というのは、そうして生まれてしまうのでしょうか……。
あまり力んで分かろうとすると、余計、理解が進まないかもしれませんね。
補足
- 出典:雑阿含経巻第12-301
(三〇一)如是我聞。一時佛住那梨聚落深林中待賓舍。爾時尊者𨅖陀迦旃延。詣佛所。稽首佛足。退住一面。白佛言。世尊。如世尊説正見。云何正見。云何世尊。施設正見。佛告𨅖陀迦旃延。世間有二種依。若有若無。爲取所觸。取所觸故。或依有或依無。若無此取者。心境繋著。使不取不住不計。我苦生而生。苦滅而滅。於彼不疑不惑。不由於他而自知。是名正見。是名如來所施設正見。所以者何。世間集如實正知見。若世間無者。不有世間滅。如實正知見。若世間有者無有。是名離於二邊説於中道。所謂此有故彼有。此起故彼起。謂縁無明行。乃至純大苦聚集。無明滅故行滅。乃至純大苦聚滅。佛説此經已。尊者𨅖陀迦旃延。聞佛所説。不起諸漏。心得解脱。成阿羅漢
(大正No.99, 2巻85頁c段17行 – 86頁a段3行)
国訳一切経阿含部1巻299頁
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