
古の言葉とあなたの今がつむぐ
禅問答的体験
原文では、お釈迦さん、アヌルッダさん、ナンダさん、キンピラさんとの対話となっています。
「あらゆるものは変化している」
それは誰もが認める事実のように思えます。
けれど、その“正しい事実”を、「絶対にゆるがない真実だ」と言い切ったとき、そこにはどのような違いが生まれるのでしょうか。
無常という教えをめぐる対話を通して、「正しい」とは何か、そして“事実の使い方”について静かに考えていきます。
まずは、アヌルッダさん、ナンダさん、キンピラさん達の「無常(むじょう)」に関する議論から始まります。
無常とは? 絶対に正しい真実なのか

「無常」という教えがあるじゃないですか。
そのことについてなんですが……

「常なるものは無い」っていう教えだね。

この世の中のもの、ありとあらゆるものを観察しても、ずっと変わらずにあるものはない。これは紛れもない事実ですよね。

私も「変化している」という事実は、身の周りのもの、目に入るもの、色々なものから、学んでいます。

無常という教えは、「あらゆるものは変化している」という事実を示しているね。

なるほど。すべてものは変化している。その紛れもない真実を示してくれているのですね。

なら、「無常」ということは、真実そのものってことですよね?

そうだね。だから「無常」という教えは、どんなに時代が変わろうとも、場所や国が変わろうとも、絶対に正しい、真実の教えってことになるんじゃないかな。

まぁ、確かに、「あらゆるものは変化している」という教えは、どんな時代であろうが、どこであろうが、絶対にゆるがない真実と言えるね。

……

なんだか、そこまで行ってしまうと、「無常」という教えから少しずつ離れていくような気がするのですが……。

ぇえ!? そうですか?

だって、正しいじゃないですか。

いや……、でもね。

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正しい事実にしがみつくとは? 無常との関係
少し議論が白熱してきた所にお釈迦さんがやってきました。

皆さん、何やら白熱していますね。

お釈迦さん、いい所に!

お釈迦さん!申し訳ありません。
少し騒がしかったですか?

いえいえ。大丈夫ですよ。
それより私も聞いていたのですが……

是非とも、お釈迦さんの考えを聞かせてください。

では皆さん。「あらゆるものは常にある。変化しない」
これは絶対に正しい真実だとその答えにしがみついたら、それは「正しくある」と言えるでしょうか?

もちろん、答えは「NO」ですよ。

そうですね。私もそれは違うと思います。

「正しくある」とは言えません。

正しくないです。

違います。

ふむ。皆さん答えは「NO」ですね。
「正しくある」とは言えない。

ふむ……、よろしい。ではこれはどうですか?

「あらゆるものは常ではない。変化している」
これは絶対に正しい真実だとその答えにしがみついたら、それは「正しくある」と言えるでしょうか?

私は「無常」は、正しい真実だと思います。だから「YES」です。

「あらゆるものは常ではない。変化している」ていうのは、正しいと思います。

ん? でも、あれ?
これ、さっきの質問とほとんど同じでは……。
でも「YES」だと思うんだけど……。あれ?

私は「NO」だと思います。

私も「正しくある」とは言えないと思います。

アヌルッダ、キンピラ、そして私の三人は、「それは何か違うのではないか」と思うのです。

そうなんです。確かに「あらゆるものは常ではない。変化している」ていうのは、正しい。だから「YES」と言いたい気持ちはわかるのですが、そういってしまうと、何かが違う気がするのです。
無常を知っても苦しいのはなぜか

ふむふむ。よろしい。
そもそもあらゆるものは変化している。
時にその変化は私達人間にとって苦しいものです。
そうですよね?

そうですね。
例えばどれだけ大切な人がいたとしても、変化するからこそ、いつかその人との別れの時がくる。

人だけでなく、物も同じだね。大切な物、それも変化するからこそ、劣化する。いつか壊れてしまう。別れの時が来る。

死や壊、老いや劣化。これらは変化しているからこそ、起こることだよね。

でも、変化しているからこそ、大切な人との出会いや大切な物を作ることもできるんですよね?

そうだね。それも変化しているからこそ、起きることだよね。

そうやって「変化している」ということを知ったのなら、「絶対に変わらない、永遠不滅、これはずーぅっと私の物、私のそばにある」と、それにしがみつくことが可能だと考えますか?

いいえ。いくらしがみついても、その対象が、いつか無くなってしまうのだから、いつまでも、しがみつくことはできません。

しがみつく。それはつまり、離れられず、依存してしまうってことなんでしょうか……。

それは「執着」ってことですかね?

うーん。変化しているということは、そのしがみついているところも、いつか無くなるということですよね。それって苦しいですね。

そうですね。しがみつく所がなくなっても、そこにしがみつこうとしていたら、それは苦しいですね……。

いくら必死にしがみつこうとあがいていたら、結局それが無いんだからね……。
大事にすることと執着の違いとは?

しがみつく所がないと知って、しがみつくことをやめたら、きっとそれは楽になるでしょう。

そうですね。

大事なことに気づきましたか?

なるほど。
無常を知ることによって、そのようにつながるのですね。

いつまでも、しがみつける所なんてないってことだもんね。

それにもかかわらず、無常という教えそのものにしがみついていたら、その行為自体が、無常という教えを無視している行動になってしまっているということですか?

ただ、その事実を知っているだけなのと、それを理解して、その事実に則した行動をしているのかは、違うってことですかね?

でもでも、私は「無常」という教えは、紛れもない真実だともうのです。

確かに、無常はゆるぎない事実だと思います。いつまでも変わらない真実といっても過言ではないかもしれません。

でも、そのいつまでも変わらない真実と言っている教えそのものが、「変化している」ということを説いているということも、忘れてはいけません。

変わらない真実が、「変わっていく」ことを説いている。
なんか矛盾しているようで、事実その通りなのが、おもしろいですね。

でも、私は「無常」という教えは正しいと思うし、間違いではないと思います。だから、大事にしたいと思うのです。

大事にすることと、執着することを混同してはいけませんよ。

えっ!? ぁあ、そうか・・・・・。
いくら正しくても、これは執着なのか……。

そういえば、大事にすることと執着することって、似ている気がするな。

そうですね。「大事にすること」と「執着すること」。どちらもやっていることに違いはないのかもしれません。

でも、やはり何か違いますよね。

ここにいる誰もが、無常という教えを受け入れている。正しいと思っている。それは何も変わらないのに、こうも違うのですから。

その教えですら、しがみつく対象にしてしまうのですね。私というやつは……。

そんなに落ち込まないでください。

そうですよ。今回の話を通じて、あなたに変化が生まれたのであればそれでいいじゃないですか。

それにそれは、あなたがしがみつかなかいからこそ、感じられる変化なのではないですか?

そうそう。それに、「そもそもしがみつく所が無い」という話もないしね。「しがみついた所もいずれ変化していく」っていう話だからね。

しがみつくことと、大事にすることが似ているって話?

それもそうだけど、大事にしようとしていた気持ちには変わりないのだから、その気持ちまで否定することもないってことかな。

しがみついていた所にしがみつくのはやめて、しがみついていた所を大事してくれるように変わったのなら、それでいいってことじゃないですか?
補足
原文や動画版、英語版、仏教用語の説明や関連する仏教知識など、補足として参照できます。
動画版
原文
- 雑阿含経巻第2-35
(三五)如是我聞。一時佛住支提竹園精舍。爾時有三正士。出家未久。所謂尊者阿㝹律陀。尊者難提。尊者金毘羅。爾時世尊知彼心中所念。而爲教誡。比丘。此心此意此識。當思惟此。莫思惟此。斷此欲斷此色身作證具足住。比丘寧有色。若常不變易正住不。比丘白佛。不也世尊。佛告比丘。善哉善哉。色是無常變易正住不。比丘白佛。不也世尊。佛告比丘。善哉善哉。色是無常變易之法。厭離欲滅寂沒。如是色從本以來。一切無常苦變易法。如是知已。縁彼色生諸漏害熾然憂惱皆悉斷滅。斷滅已無所著。無所著已安樂住安樂住已得般涅槃。受想行識亦復如是。佛説此經時。三正士不起諸漏。心得解脱。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻8頁a段5行-20行)
- 国訳一切経阿含部1巻54頁
英語版
この記事の英語版はこちらです(2026年6月25日公開)

登場人物
下記の人物を「登場人物」の記事に追加しました。
- キンピラ
- ナンダ




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