
本記事は「雑阿含経巻第27-726」の内容をもとに作りました。
善知識

仏法を学び、そしてともに仏道を歩む。私はこのような善き友達に恵まれています。
師匠。私は思うのですが、こうして善き友達がいるということは、既に修行の道の半分まで到達したようなものでしょう。

そんなことをいうものではありませんよ。アーナンダ。

善き友、仲間に恵まれただけで、仏道の半分を達成したというのは、さすがにいいすぎですよね?

そうではありません。善き友達がいるという事は、修行の半ばではなく、その全てなのですよ。

え? そっちですか? 道半ばではなく、その全てということですか?

そうです。例えば、皆が私を善き友としてくれることによって、仏の教えを学び、そしてともに仏道を歩んでいるでしょう。

善き知識、善き仲間、そしてそれら善き事に随っていく事。私はこれ等なるものは、修行の半ばだと思っていました。

そうではありません。それらは修行の半ばではなく、それらは修行の全てなのです。

善き知識も、善き仲間も、善きことに随っていく(指導される)事も、修行の全て。
言い換えれば、善い知識、善き仲間、善き事に随う(指導、指導者)とは、それ全て、修行でもあるということですね。

何が言いたいの?

仏教は単なる善き知識という理解ではいけない。そこには、善き仲間だったり、善き指導(者)だったり、人の存在が欠かせないというかなって思ったの。

そうですね。善知識というのは、単なる「事柄」ではなく、「人」を表す言葉として捉えないといけないですね。

ですから善き友を持ち、善き仲間がいるということは、修行の全てであると知りなさい。
補足情報
出典
- 雑阿含経巻第27-726
(七二六)如是我聞。一時佛住王舍城夾谷精舍。爾時尊者阿難亦在彼住。時尊者阿難獨一靜處。禪思思惟。作如是念。半梵行者所謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。惡伴黨。惡隨從。時尊者阿難從禪覺往詣佛所稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。我獨一靜處。禪思思惟作是念。半梵行者所謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。惡伴黨。惡隨從。佛告阿難。莫作是言。半梵行者。謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。惡伴黨。惡隨從。所以者何。純一滿靜。梵行清白。所謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。惡伴黨。惡隨從。我爲善知識故。有衆生於我所。取念覺分。依遠離。依無欲。依滅向於捨。如是擇法覺分。精進・喜・猗・定・捨覺分。依遠離。依無欲。依滅向於捨。以是故。當知阿難。純一滿*靜。梵行清白。謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。非惡伴黨。非惡隨從。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻195頁b段10行-28行)
- 国訳一切経阿含部2巻235頁
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