
本記事は「雑阿含経巻第8-227」の内容を基に作りました。

計る病

「計る」
これは病なのです。

計るといっても色々な計るがあります。
計算、計量、計測、計画……。
それらが病いなのですか?

別に、悪いことじゃないと思いますけど……。

あ、でも確かに、考えすぎはよくないですよね。
例えば、何か計画を立てる時、あれやこれやといろんな可能性を考えてしまって、結局は何もできなくなってしまうこと。あるよね?

でも、危機管理とか大事ですよ。
確かに考えすぎたり、机上の空論はよくないと思うけど、行き当たりばったりもそれはそれで危険じゃない?
「病い=悪い」ではない。

「計る」ことは病いです。
病いは悪いとはいいません。ただ、私たちにとって、病いとは避けられない苦しみです。

うーん。病気を放置したら、悪化しますよね。悪くないですか?

病気を理解して、しっかりと対応すれば、良くなるよ?
診察(観察)して、治療するってことだね。

なるほど

それに、病気を理解することは、健康状態を維持する、つまり良い状態を維持することにもつながるんじゃない?

ああ、予防ってことか。
とりあえず、「病い=悪い」としてしまうのは、早計ってことだね。

それで、話を元に戻すけど、「計るが病い」という事は、よく考えないといけないよね。

計算、計量、計測、計画……。そうやって考えることは、人が生きる上では欠かせないけど、悪化しないように注意しなきゃいけないってことかな?

例えば、「はかりごと」って言うでしょ。
「謀り事」とも書くよね。

謀り事って陰謀って感じに聞こえて、私はあまりいいイメージがないね。

そうでしょ。でも「謀り事」って「物事が上手く運ぶように予め考えた計画」って意味みたいよ。

えっ? そうなの?

自分にとっても他者にとっても「物事が上手く運ぶように予め考えた計画」は悪いことではない。でしょ?

そだね。

でもそれが、自分にだけ「物事が上手く運ぶように予め考えた計画」となると、すごく印象悪くない?

なるほど。確かに。
そうなってくると、人と人との関係も、いかに自分にとってうまく運ぶか、物事を計算でしか考えないってことにもなりかねないね。

師匠。そういう考え方が病気ってことですか?
計る依存症

少しお茶でもどうですか?
そういえば、よいお菓子も頂きまして、ご一緒にどうぞ。

えっ。ありがとうございます。私甘いの好きなんですよね。

そうですか。
今、切り分けますね。

ありがとうございます。
それじゃあ、私はこちらをいただきますね。

ちょっと待って。
そっちの方が大きくない?

大きい方がいい?
そっちのほうが中身が詰まってるようにみえるけど。
それに私、端っこが好きなんですよね。
端っこがいい?

ああ、端っこ好きだったね。
私は、中身が詰まっているほうがいいかな。

喧嘩しないでくださいね(笑)
ところで、このまま喧嘩になっていたら、どうしてましたか?

え、そうですね。例えば、均等に分けないと不平不満が出るのなら、きっちり分けようとしますね。例えば、大きさとか?

それ、本当にきっちりするなら、何cmとか計らないとだめですね。

そうなるね(笑)

大きさだけですか?

そうですねぇ。中身の多さとかなら、何gか量りますね。

端っこがどうのとも言ってましたよね?

端っこが好きなのって、何がいいの?

なんでだろう。あえていうなら食感なのかな?

ということは、固さ? 歯ごたえがあるから?

固さって言われるとなんかなぁ……。
まぁ、でもそういう固さ柔らかさも計測しようとすればできるよね。

そうですね。まぁ食べ物に使うのにはあまり聞きませんけど、硬さの単位もありますね。

えー。
そんなこといったら、甘さ(糖度)とか、成分の内容量とか、他にもいろいろ計れることがありますよ。

予め、こういう喧嘩にならないように、ルール作りすることも、計画を立てるうちの一つですよね。

簡単に、きっちり均等に分けるとは言ったけど、厳密にいろんな角度から考えだすと、どこまでも複雑になっていって、だんだん頭が痛くなってくる……。

というか、そもそも1/3って「1÷3=0.33333333……..」だから、割り切れなくない?

そだね(笑)

「計る」って便利で、私たちにとって欠かせないと思うけど、確かに、頭を痛くさせることがあるね。

まぁ、さっきのお菓子だって、あまりこだわらなければ、ある程度均等に切り分けることができるもんね。

それに、「計る」って依存してしまいやすいかもね。結局はきりがない話なのに、「計る」ということだけに捉われてしまっている気がする。

うーん。師匠。
この「計る」ということが、病気ということは、なんとなく理解できました。
だとすれば、どうしたらいいんですか?
「計る病」には、どうしたらいい?

「わたし、或いは、わたしのもの」と計ることをなければいいと思いますよ。

さっきのお菓子を分けたケースでいうと、「これわたしの取り分!」とか「わたしはこっちがいい!」とか言わなければいいってことですか?

じゃあ、「わたしは大きい方がいい」とか「わたしは端っこが好き」とか言わずに、全部他人に譲れってことですか?

私の言葉を、ただの記号のように解釈しないでくださいね。
それこそ、計るということですよ?

?

んー。私たち、別に喧嘩になったわけじゃないしね。
それに、お互い相手が好きな所を譲り合えたわけだしさ。

「わたし」を無くして、他者に譲れということではないってこと?

「無我」っていう言葉があるけど、これも言葉通り受け取れないってよく話しているじゃない。
こんな話もあるよ。


んー。なんていうか。長い!

計るってどうしてもそうなっちゃうよね。
わかりやすいようにしているようで、実際のところ、とても複雑にしてしまっているというか……。

まぁでも、自分を捨てて、他人に譲れってことではないということはないってことですね。

少なくともここで言えることは、「自分を捨てて、他人に譲れ」と考えてしまうのは、「わたし、或いは、わたしものと計っている」からではないですかね。

そのように計ることがなければ、その手の内につかんだと思っていることを手放すことができない状態も、自然となくなっていきますよ。

???

私達、今まで、計りすぎってことですか?

どこか間違っていましたか?

いいえ。そんなことはありませんよ。
それよりお菓子はどうでしたか?
お茶のおかわりはどうですか?

あ、ありがとうございます。

このお茶もおいしいですよね。

こうして、私もあなた達とこういうお話ができて、互いに切磋琢磨できて、しかも、おいしいお茶やお菓子をご一緒できたこと、うれしく思いますよ。

いえいえ。そんな大げさな

そこまで言われると照れちゃいますよ(笑)

そうですか?
場合によって、話し合いだって、どっちが正しいか間違っているかで、激しい応酬の末に、相手を罵ったり、傷つけたりすることだってあります。

お茶やお菓子ですら、どっちが得でどっちが損かで、奪い合いになることだってあるんですよ。どっちが自分ので、どっちが他人のでってね。

そうやって、争いの火種にしてしまうこともできるのですよ。

確かに……

ん?
ひょっとして、それも「計る」ってことが関わっていますか?

( ◜◡◝ )
補足
- 出典:雑阿含経巻第8-227
(二二七)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。計者是病。計者是癰。計者是刺。如來以不計住故。離病離癰離刺。是故比丘。欲求不計住。離病離癰離刺者。彼比丘。莫計眼我我所。莫計眼相屬。莫計色眼識眼觸。眼觸因縁生受。内覺若苦若樂不苦不樂。彼亦莫計是我我所相在。耳鼻舌身意。亦復如是。比丘。如是不計者。則無所取。無所取故。無所著。無所著故自覺涅槃。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。佛説此經已。諸比丘。聞佛所説。歡喜奉行如眼等所説。餘一一事。亦如是
(大正No.99, 2巻55頁c段13行-25行)
国訳一切経阿含部1巻188頁
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