▽原作「仏教トーク」
編集後記
悟りや煩悩といった言葉は一般的によく知られています。そして皆なんとなくですが、この言葉に対して漠然としたイメージを持っています。
確かに仏教において悟りや煩悩といった話は必ずどこかで耳にする話ではありますが、実際にこの言葉を用いる時は非常に注意が必要な言葉だと考えます。
悟りや煩悩と訳される言葉ですが、その語源を辿ると実に様々な表現がされています。今回、冒頭で悟りや煩悩が尽きると表現した言葉は、原文においては「漏盡(漏尽)」という言葉で記されています。
動画等ではこの「漏尽」という言葉を「悟り・煩悩が尽きる」と簡単に訳しましたが、この記事内で、「漏尽」について調べたことや感じたことを書きます。
漏尽
漏尽とは、読んで字のごとく、「漏が尽きる」ということですが、そもそも「漏」とは何なのでしょうか?
訓読みをすると「漏れる」とあるように、これは漏れ出すことをイメージするのがいいでしょう。
例えば、禅学大辞典にはこのようにあります。
堤をやぶって水が漏出し、田畑をおかすように、煩悩が善根の苗を損ずること。あるいは傷口からうみが流出するように、煩悩が六根を通じて絶えず過患を漏泄することをいう。
禅学大辞典
堤防から水があふれ出る、あるいは傷口から膿が出てくるように、煩悩が「漏れ出す」というイメージを、言葉の上からも想像することができます。
しかし、この語源を辿ると、漏とは元々、流入(Āsrava)という意味だったとあります。
岩波仏教辞典では、漏尽(Āsrava-Kṣaya)についてこのようにありました。
Āsrava(漏)とは本来、流入の意で、煩悩や業や苦難が身の中へ漏れ入ること。ジャイナ教ではもっぱらこの意に解する。
岩波仏教辞典
ジャイナ教とは紀元前6~5世紀頃の仏教とほぼ同時期に成立したインドの宗教です。徹底した禁欲主義を唱えていました。
このジャイナ教で使われていた「漏尽」という言葉を、仏教でも使い、結果として「煩悩の漏出」という意味で使われるようになりました。
ジャイナ教では「入」ってくると表現で使っていましたが、仏教では「出」という表現になっています。
仏教ではこのように、当時ある程度周知されていた言葉を、仏教においては違う表現で使用していることがよくあります。
例えば「ヤバイ」が危ない事を表す言葉だったのが、すごいを表す言葉として用いられるように、言葉はその使う人が実際にどういう意味を込めて使っているのかを考えることが、とても大事になってきます。
わざわざ流入という意味で使っていた言葉を、漏出という意味に変えたのか、そこはよく考察する必要があるはずです。
考察と言えば、今回の話においてもお釈迦さんは「漏尽とは何か」と説いてはいますが、「こういう意味だよ」と明確には答えていません。
自己をよく観察することに触れ、またわざわざ、たとえ話を用いています。その話を用いてお釈迦さんは何を伝えたかったのでしょうか。この漏尽という言葉を使って何を伝えたかったのでしょうか。
「悟り=○○という意味」「煩悩が尽きる=○○という意味」という具合に、明確な結論を出すように理解したがってしまいますが、そもそも「悟りや漏尽という言葉を使ってお釈迦さんは何を伝えたかったのか?」と考える必要があるように思います。
そこに明確な答えはありません。明確な答えは出せません。しかし、問題から考え始めることで、気づくことがあるはずです。
▽音源素材
VOICEVOX:波音リツ
VOICEVOX:玄野武宏
VOICEVOX:白上虎太郎
VOICEVOX:WhiteCUL
VOICEVOX:雀松朱司
VOICEVOX:麒ヶ島宗麟
効果音ラボ
▽動画編集ソフト
▽引用(経典)
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
▽荒村寺(曹洞宗)
▽クリエーターページ(note)
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