煩悩について|草木のたとえ

ちしょう
ちしょう

本記事は「雑阿含経巻第12-283」の内容を基に作りました。

雑草煩悩をかる

弟子1
弟子1

今回は「煩悩」について、何かお話をお聞かせください。

お釈迦さん
お釈迦さん

煩悩……ですか?

弟子2
弟子2

はい。私達を迷いの世界に結び付け、しばりつけるもの。私達を煩わせ、悩ませるもの。それを煩悩というのでしょう?

お釈迦さん
お釈迦さん

ん-まぁ。そうやって迷い結びつけられ、縛られてしまったら、それは苦しいですよね。

弟子1
弟子1

はい。当然苦しいことです。

弟子2
弟子2

身も心も縛られたら、苦しいですし、迷いも悩みも煩いも、全部苦しい事です。

お釈迦さん
お釈迦さん

植物の種があるじゃないですか?

弟子1
弟子1

何の種ですか?花ですか?木ですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

何でもいいですよ。花でも、木でも、米でも、何でも。種を植えて芽が出てきますよね。

弟子2
弟子2

はい。種から小さな芽が出てきます。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。はじめはとても小さくて、何ていうか、弱いですよね。

弟子1
弟子1

米も苗がある程度大きくなるまで、田んぼには植えないですもんね。

弟子2
弟子2

人も動物も植物も、赤子の時はそれだけケアが必要ですよね。

弟子1
弟子1

逆に、雑草なんかは、小さいうちに対処した方が楽だよね。

弟子2
弟子2

そうだね。しばらく放っておくと、知らないうちに大きくなって、どんどん増えていくもんね。

弟子1
弟子1

増えれば増えるほど、増える速度が増すし、大きくなれば大きくなるほど、掃除しにくくなるよね。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。そうやって草や木が増え、大きくなっていくように、煩悩もまた増大していきます。

弟子2
弟子2

煩悩も草木のように、どんどん成長していくのですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

大きく強くなる前に、小さなうちからこまめにケアしていた方が、楽だと思いませんか?

弟子1
弟子1

雑草のように小さなうちからこまめに刈り取っていた方が、確かに対応しやすいと思います。

お釈迦さん
お釈迦さん

そのように、迷いに結び付け、また縛られることがなければ、そのように苦しむこともないでしょう。

弟子1
弟子1

外を掃除する際、小さいうちからこまめに雑草を抜くのと似たようなものなのですね。

弟子2
弟子2

そうやって雑草を取り除けばきれいになるもんね。

弟子1
弟子1

でもさ。雑草って、抜いても抜いても、またどこからか生えてくるよね。

弟子2
弟子2

そうだね。いっそのこと全部根絶やしにして、二度と生えてこないようにしたいよねw

サーリプッタ
サーリプッタ

根絶やしにするって、また物騒な話をしていますね。

弟子2
弟子2

え、いや。煩悩を根絶やしにするって話ですよ?

サーリプッタ
サーリプッタ

いやいや、雑草を根絶やしにするって事は、そこは草木も生えない土地にするってことじゃないですか?

弟子1
弟子1

え、ああ、そうか。雑草のような強い植物も育たない土地なら、作物を育てるにも適さない土地ですよね……。

弟子2
弟子2

ということは、煩悩だって根絶やしにしたらまずいってことですか?

サーリプッタ
サーリプッタ

そういう意味合いも含めて、草木のたとえをされたんじゃないですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

各々、よくご参究ください。


補足

  • 出典:雑阿含経巻第12-283

雜阿含經卷第十二 宋天竺三藏求那跋陀羅譯

(二八三)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊。告諸比丘。若於結所繋法。隨生味著。顧念心縛。則愛生。愛縁取。取縁有。有縁生。生縁老病死憂悲惱苦。如是如是。純大苦聚集。如人種樹。初小軟弱。愛護令安。壅以糞土。隨時漑灌。冷暖調適。以是因縁。然後彼樹。得増長大。如是比丘。結所繋法。味著將養。則生恩愛。愛縁取。取縁有。有縁生。生縁老病死憂悲惱苦如是如是。純大苦聚集。若於結所繋法。隨順無常觀。住生滅觀。無欲觀。滅觀。捨觀。不生顧念。心不縛著。則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老病死憂悲惱苦滅。如是如是。純大苦聚滅。猶如種樹。初小*軟弱。不愛護。不令安隱。不壅糞土。不隨時漑灌。冷暖不適。不得増長。若復斷根截枝。段段斬截。分分解析。風飄日炙。以火焚燒。燒以成糞。或颺以疾風。或投之流水。比丘。於意云何。非爲彼樹。斷截其根。乃至焚燒。令其磨滅。於未來世。成不生法耶。答言。如是世尊。如是比丘。於結所繋法。隨順無常觀住生滅觀。無欲觀。滅觀。捨觀。不生顧念。心不縛著。則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老病死憂悲惱苦滅。如是如是。純大苦聚滅。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻79頁a段23行-b段22行)

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースより

国訳一切経阿含部1巻280頁

コメント

  1. エナガ より:

    はじめまして。若い時から曹洞宗と縁がある者です。
    今回の記事と直接関係のないコメントで失礼いたします。
    私はいわゆるスピリチュアルが苦手で、死後の世界とか輪廻転生とか魂とかは考えたくないタイプです。
    そこで、最近、「ブッダ 無記」と検索したら、こちらのサイトの仏教エピソード⑦にヒットしました。
    おぼろげながら、「無記」を知っていましたが、ハッキリとしたエピソードを学ぶ事が出来て大変有意義でした。
    仏教でも、①人は死んだら浄土に行く②人は死んだら輪廻する③人は死んだら終わり(死後の世界は想定しない)という3つの立場があるようですが、ブッダが③の立場を取っていることがわかり、すごく安心しました。
    この認識は「現在の修行態度」に大きく関係してくると思います。
    どうもありがとうございました。

  2. エナガ より:

    追記です。
    先ほどの私のコメントで、「ブッダは③の立場を取っていることがわかり」と書きましたが、ブッダはそうも言っていないですね。「無記」と言っているだけでしたね。
    この問題はなかなかデリケートなので、これら二つのコメントは承認なさらず、不掲載でお願いいたします。
    失礼いたしました。

    • ちしょう(智彰) 慈然智彰 より:

      コメントについてエナガ様にメールでご返答したところ、

      「このご回答は掲載して、皆さんにも読んで頂くと参考になるなと思いました。人は自分の願望も入ったりして、①②と断じたり、③と断じたり、しがちかもしれませんね。そしてその事で論争になったりするのかもしれません。よろしければ、私の二つのコメントを掲載して頂き、智彰様のご回答を載せて頂いても結構ですよ」

      とのご返事を頂きましたので、コメントの承認をさせていただきました。(上記、メール内容の一部の掲載も許可頂きました)

      【以下、私が今回のコメントでエナガ様にお送りしたメールの内容になります】

      コメントありがとうございます。
      「無記」についての興味深いコメント読ませていただきました。

      「無記は記してない。答えていないですから、①②③とも言っていない」

      その通りだと思います。

      仏教で生死について語る時、死後は、有るとも無いとも言っていない、「無記」です。
      ただ、生死について語る中で、無記と言っているにも関わらず、①②と断じてしまう人がいます。
      また反対に、生死について語る中で、無記と言っているにも関わらず、③と断じてしまう人がいます。

      有ると断じるのも、無いと断じるのも、言っていることは真逆ですが、やっていることは、同じく「断じる」ということをしています。
      断じる(分ける)ことで認識(分かる)し、なんだか分かった気になってしまう。でも実際には、そうやって、物事の事実が見えなくなることがあるのやもしれません。

      残念ながら不掲載を希望ということなので、このまま不承認にさせていただきますが、コメントを観ることで、私も色々と考えさせていただきました。
      おっしゃる通り、なかなかデリケートと言える話なので、これからもご参究頂けると幸いです。

      以上

      「話題となっている仏教エピソード7はこちら
      あとこちらも参考までに仏教トーク7

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