
本記事は「雑阿含経巻第35-985」の内容をもとに作りました。
好き・嫌い|愛・怒り

好きなものってある?

え? そりゃあ、あるけど……

じゃあ、嫌いなものは?

あるねぇ。むしろ、好き嫌いがない人間なんているの?

でも「人を嫌う」ということは、あまり褒められたことじゃないと思っているんだけど、どう思う?

一般論として、なんとなく「人を嫌う」ことはダメだって思われている所はあるかな。

逆に、人を愛することは褒められるべき事だと思うけど、どう思う?

「人を嫌うことは悪いこと」で、「人を愛することは良い事」だと、そう言いたいの?

なんとなく、そう思っている所が一般論としてあるんじゃないかなって。もちろん、私もその影響を受けている。
だから、何かをひどく嫌いになった時、この感情は良くないことだと思ってしまうことがある。

嫌いになってはいけないと思うと、いざ嫌いな出来事に遭遇した時に、罪悪感とか生まれない?

ああ、そうなってしまうかも。

私は、人間には好き嫌いがあって当然だと思うけど。

師匠はどう思いますか?

愛から愛が生まれることもあります。
愛から怒りが生まれることもあります。
怒りから愛がうまれることもあります。
怒りから怒りが生まれることもあります。

どういうことでしょうか?

例えば、人は花を見たら美しいと思います。そういった対象を愛でるでしょう。一方、糞を見たら汚いと思います。そういった対象を嫌悪するでしょう。
その糞がその花の肥料にもなっているのに……。

好きなものは愛し、嫌いなものは嫌悪する。そういうことですか?

ですよね。好き嫌いはありますよね?

人は好きな物は、快いと感じるものです。この「快」という感覚が生まれます。この「快」と感じるものに対して、人はどういった行動にでますか?

快いものだったら、欲しいですよね。

そうです。それが「欲」ですね。
言い換えれば、それは「近」づけようとすることですね。
「快」と感じるものや出来事には、人は自分から近づこうとする、あるいは自分に近づけようとします。

なるほど。自分に近づけるのですね。最終的には自分にピタっとくっつけて、もう離さないという形になると、執着ってことになるのですね。

もともと、執着というのは、ピタっとくっつくって意味らしいね。

では、愛するということは、好きだったり、欲することだったり、そういう欲望と関連している事というわけですね。

反対に、人は嫌いなものは、不快に感じます。この「不快」という感覚が生まれます。この「不快」と感じる者に対して、人はどういった行動にでますか?

不快なものは、近づきたくないです。できれば自分から遠くの方にやりたいですね。

そうです。「遠」ざけようとする。避けようとするでしょう。
「不快」と感じるものやでき後には、人は自分から遠ざけようとする、あるいは、自分から避けようとします。

遠ざけたい、避けたいというのも、欲望ですよね。

欲望ではありますが、もう少し分かりやすく言えば、これが「怒り」という事ですね。

なるほど。怒りを反発する力、遠ざけようとする力と考えるとわかりやすいですね。

えっと、整理すると、「欲」というのは、自分にとって「快」を感じるものを「近」づけようとすること。「愛」「好」もこの「欲」と関連している。

「怒」というのは、自分にとって「不快」を感じるものを「遠」ざけようとすること。「嫌」もこの「怒」と関連している。

はい。だから愛から怒りが生まれる事も怒りから愛が生まれる事もあると考えるのです。

例えば、何か好きなものを想像してください。
あなたは、その好きなものに喜びを感じ、それを愛しているとしましょう。そしてあなたと同じものに、喜びを感じ、それを愛している人がいる。あなたとその人はその何かについて真剣に語り合うとしたら、どのように感じますか?

同じように喜びを感じ愛しているのなら、意気投合するんじゃないですかね?

そうなった場合は愛から愛が生まれると言えるでしょう。

ではこの場合はどうでしょうか?

あなたは、その好きな物に喜びを感じそれを愛している。しかし、あなたと違って、あなたの好きな物に対して、喜ばず、愛していない人がいる。あなたと、その人がその好きなものに対して、真剣に語り合ったらどうなりますか?

意見が対立するでしょうね。もし向こうが、自分が好きな物を嫌っていたら、場合によっては、対立からケンカに発展するかもしれません。

そうなった場合、愛から怒りが生まれると言えるでしょう。

では次のケースですが、あなたの嫌いものを想像してください。
あなたはその嫌いなものに喜びを感じず、愛せない。そしてあなたと同じく、その嫌いなものに喜びを感じず、愛していない人がいたとします。あなたとその人がその嫌いなものについて、真剣に語り合ったらどうなりますか?

同じように嫌悪しているのなら、それも意気投合するのではないでしょうか。

そうなった場合は、怒りから愛が生まれると言えるでしょう。

では最後に、あなたはその嫌いなものを喜びを感じず、愛せない。一方で、その嫌いなものに対して、喜びを感じ、愛している人がいたとします。あなたとその人が、その嫌いなものについて真剣に語り合ったら、どうなりますか?

価値観が違うので、意見が対立するでしょう。行き過ぎてしまえば、ケンカになることだって考えられます。

そうなった場合は怒りより怒りが生まれると言えるでしょう。

愛から怒りが生まれたり、怒りから愛が生まれたりするという事は、そういうことなんですね。

そう考えると、愛だから善いとか、怒りだから悪いとか、一概に言えませんね。

今の話を聞いていると、愛も怒りも、そう大して変わらないものなんじゃないかと思えてきたよ。

では私達は、こういった自分にどう向き合えばいいのでしょうか?

まずは「自分が正しい、間違っていない」という見解を持たない事でしょうね。

自分が明らかに正しくてもですか?

そういう意味ではありません。人は必ずしも正しいわけではありません。失敗したり、間違えたりする生き物です。

たとえ、自分の意見が正しいと思っていたとしても、間違えたり、見落としたりしている可能性があることを忘れないという事ですかね?

自分こそ真実だとか、自分の意見ばかりに執着するだとか、そういう思い込みには気をつけなければいけません。

私こそ正しい、私こそ偉い、私の意見が間違うはずがない。こんなふうに「私は……」「自分は……」となってしまわないように気をつけたほうがいいと言う事は分かります。

「私は……」「自分は……」と我が強すぎる者同士が出会うと、罵声には罵声で返すだの、怒りには怒りで返すだの、そういった事態に陥りがちです。

殴られたら殴り返す。やったらやり返す。こういうのは結局、お互いやっている事は変わらないですもんね。

こうした我は、相手の立場から物事を考えず、自分だけの視点や考えになど、自分だけに捕らわれてしまいます。それは気をつけなければいけません。

相手の立場から考えるか……。

はい。決して自分と相手の見解が違っていたとしても、相手の立場から考えれば、また違った視点が見えてきます。

たとえ、自分が正しくて、相手が間違っていたとしても、どうしてそうなってしまったのか、考える余裕が生まれる。人間、完璧などないのだから、そういう失敗は自分でも起こりうるかもしれない。

そういった視点は、相手の理解にもつながるね。たとえ、その行為が許せなかったとしても、本当の意味で、その人を嫌う、許せなくすることを防いでくれそうな気がする。

その人を嫌いに感じると「そんな考え方理解できない」といって相手の立場から考えることも拒否してしまいがちだけど、この拒否反応が本当の意味で、人を嫌うということなのかな?

うん。でもそれでも、その嫌いな人の立場から物事を考えてみる。その人はどのように見て、考える癖があって、どのように感じているのか。そうして考えることによって自分とはまた違った視点が見えてくる。

嫌いな相手の立場に立ってその人を理解しようとする姿勢は、単に相手を嫌っていることとは違うと思う。

そういった理解が「相手を嫌わない」「人を嫌わない」という事に繋がっていくのだと思いますよ。

要するに、罪を憎んで人を憎まずということですかね。

それを実践するには、どうすればいいかって視点で、この話を振り返ると、興味深いですね。
補足情報
出典
- 雑阿含経巻第35-985
(九八五)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。有從愛生愛從愛生恚。從恚生愛。從恚生恚。云何爲從愛生愛。謂有一於衆生。有喜有愛。有念有可意。他於彼有喜有愛。有念有可意隨行此。作是念。我於彼衆生。有喜有愛。有念有可意。他復於彼。有喜有愛。有念有可意隨行故。我於他人復生於愛。是名從愛生愛。云何從愛生恚。謂有一於衆生。有喜有愛。有念有可意。而他於彼。不喜不愛。不念不可意。隨行此。作是念。我於衆生。有喜有愛。有念有可意。而他於彼。不喜不愛。不念不可意隨行故。我於他而生瞋恚。是名從愛生恚。云何爲從恚生愛。謂有一於衆生。不喜不愛。不念不可意。他復於彼。不喜不愛。不念不可意隨行故。我於他而生愛念。是名從恚生愛。云何從恚生恚。謂有一於衆生。不喜不愛。不念不可意。而他於彼。有喜有愛。有念有可意隨行此。作是念。我於彼衆生。不喜不愛。不念不可意。而他於彼。有喜有愛。有念有可意隨行。我於他所問起瞋恚。是名從恚生恚。若比丘離欲惡不善法。有覺有觀。乃至初禪第二第三第四禪具足住者。從愛生愛。從恚生恚。從恚生愛。從愛生恚。已斷已知。斷其根本。如截多羅樹頭。無復生分。於未來世成不生法。若彼比丘盡諸有漏。無漏心解脱慧解脱。現法自知作證。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。當於爾時。不自擧。不起塵不熾然。不嫌彼。云何自擧。謂見色是我。色異我。我中色。色中我。受想行識亦復如是。是名自擧。云何不自擧。謂不見色是我。色異我。我中色。色中我。受想行識亦復如是。是名不自擧。云何還擧。謂於罵者還罵。瞋者還瞋。打者還打。觸者還觸。是名還擧。云何不還擧。謂罵者不還罵。瞋者不還瞋。打者不還打。觸者不還觸。是名不還擧。云何起塵。謂有我我欲乃至十八種愛。是名起塵。云何不起塵。謂無我無我欲乃至十八愛不起。是名不起塵。云何熾然。謂有我所。我所欲乃至外十八愛行。是名熾然。云何不熾然。謂無我所。無我所欲。乃至無外十八愛行。是名不熾然。云何嫌彼。謂見我眞實起。於我慢我欲我使。不斷不知。是名嫌彼。云何不嫌彼。謂不見我眞實我慢我欲我使已斷已知。是名不嫌彼。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻256頁b段8行-c段26行)
- 国訳一切経阿含部3巻6頁
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