学びの種、実を結び、果と成る|三学(戒・定・慧)

ちしょう
ちしょう

本記事は「雑阿含経巻第29-827」の内容をもとに作りました。

学びの種、実を結び、果と成る

弟子2
弟子2

私達、仏道を学んでいるじゃない?

弟子1
弟子1

うん。急にどうした?

弟子2
弟子2

いや、仏道に限った話ではないのかもしれないけど、学んだからといって、その学びがすぐに結果に結びつくものじゃないよね?

弟子1
弟子1

そうだね。それが、いつ実を結ぶか、わからないよね。

弟子2
弟子2

それこそ、本当に学んだら学んだ分だけ、ちゃんと実に成っている身についているかわからないよね。

弟子1
弟子1

うーん。まぁこの世に絶対はないからねえ。

弟子2
弟子2

師匠はどう思われますか?

お釈迦さん
お釈迦さん

例えば、農家さんが田を作ったり、作物を育てたりするようなものじゃないでしょうか。

弟子1
弟子1

耕したり、種を植えたりするようなもの、という事ですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。それも無闇やたらに田を耕すのではなく、時に随って行いますよね?

弟子1
弟子1

「時に随う」というのは「適した時に行う」ということですか?

弟子2
弟子2

冬に育たない作物を冬に植えた所で、実らないもんね。然るべきタイミングってことかな。

お釈迦さん
お釈迦さん

それは、その作物自体が教えてくれますよ。

時に随って耕し、時に随って水をやり、時に随って種を植える。

お釈迦さん
お釈迦さん

しかし、そうしたからといって、農家の人達は「今日には成長して実が成る」とか「今日中に成熟させてやろう」とか、思わないですよね。

弟子1
弟子1

思わないでしょうね。「明日や明後日には!」とも思わないでしょう。

弟子2
弟子2

そうか。だから学びもすぐに結果に結びつくと思ってやったり、すぐに成熟させてやろうと思ったり、しないか。

弟子1
弟子1

時に随って①耕し、②水をやり、③種を植える。この三つがあるという事ですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

ただ、種がすでに地中にあるのなら、自然と時に随って成長し、時に随って、果実がなり、時に随って成熟します。

弟子2
弟子2

学びも時に随って①成長、②実が成り、③成熟する。なるほど。これも三つか。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうです。ところで、三つと言うのであれば、戒を学び、定を学び、慧を学ぶ。この三つの学びがあります。

弟子1
弟子1

戒・定・慧で三学か。

戒とは戒律だよね。簡単に言うと仏教の規律ってことだよね?

弟子2
弟子2

戒と律では意味が違うよ。戒というのは厳密にいうと「こういうことを守ろうと自分で決意すること」だよ。そして、律は集団(私達の場合は僧の集まりであるサンガ)の規則という意味になる。

弟子1
弟子1

戒というのは、努力目標みたいな意味でもあるってこと?

弟子2
弟子2

そういうこと。

弟子1
弟子1

じゃあ、定は? 禅定とも言われるよね?

弟子2
弟子2

実はこれも色んな意味を含んでいるから、一言で説明するのは難しいね。あえて一言で言えば、「三昧ざんまい」という言葉もあるね。落ち着き、静める、安定するという意味があるね。

弟子1
弟子1

安心するってこと?

弟子2
弟子2

不安が無くなるという意味での安心ではないよ。その安心とは違う意味合いを込めて、仏教では同じを書いて安心(あんじん)という言葉がある。

弟子2
弟子2

一般的にいう安心は、不安が無くなるということ。

弟子1
弟子1

でも不安はあるよね? 仏教では苦しみはあると考えるし。だから不安はあると思うのだけど。

弟子1
弟子1

じゃあ、慧というのは? 智慧の慧だよね。

弟子2
弟子2

そうだね。一般的には知恵と書くけど、仏教では智慧と書く。

弟子1
弟子1

やっぱりそれも違いがあるからなの?

弟子2
弟子2

これも簡単に言えば、知識や知恵というと、頭で理解できる事なんだけど。

だけど仏教でいう智慧は、頭だけでなく、身も心も全てで理解するってことかな。

弟子1
弟子1

頭でっかちにならないって事?

弟子2
弟子2

例えば、箒って何かわかる?

弟子1
弟子1

それぐらいわかるよ。

弟子2
弟子2

箒を持っているだけでは、綺麗にならないよね?

弟子1
弟子1

当たり前じゃないか。ちゃんと箒を使って掃除しないと綺麗にならないよ。

弟子2
弟子2

同じように、知識を持っているだけでは、仏道は成り立たないの。

弟子1
弟子1

ちゃんと箒を使って掃除するように、実践も踏まえていないといけないということか。

弟子1
弟子1

これが三学なのか。

弟子2
弟子2

うん。でもこの三学のどれもこれもが、言葉だけでは説明できないというか……。言葉だけの説明だと、何か大事な所が欠けている気がするんだよね。

弟子1
弟子1

わかる。実際に種や土地、農具や水があって、それが何か言葉で説明できたとしても、それをどう活用して実践に結びつけるかという事は、経験してみないとわからない事があるよね。

弟子2
弟子2

実践に結びつけるか……。これも実を結ぶという事なのかな?

弟子1
弟子1

とにかく、この「三学」を学ぶのは大事なことみたいだね。

 

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。ただこの三学をよく学んでいても、このようには思わないものです。

 

「今日には成長して悟る」とか「今日中に悟ってやろう」とか。「明日や明後日には!」とも思わないでしょう。

弟子1
弟子1

はい。確かに、そうですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

しかも、そのように思わなくても、自然じねんの力は、自然とその果実へと結びつく、結果と成るのです。

 

その者は、すでに時に随って戒を学び、時に随って定を学び、時に随って慧を学び、その果を得るのです。

補足情報

出典

  • 雑阿含経巻第29-827

(八二七)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。譬如田夫有三種作田。隨時善作。何等爲三。謂彼田夫。隨時耕磨。隨時漑灌。隨時下種。彼田夫。隨時耕磨漑灌下種已。不作是念。欲令今日生長。今日果實。今日成熟。若明日後日也。諸比丘。然彼長者耕田漑灌下種已。不作是念。今日生長果實成熟。若明日若復後日。而彼種子。已入地中。則自隨時生長。果實成熟。如是比丘。於此三學。隨時善學。謂善戒學。善意學。善慧學已。不作是念。欲令我今日得不起諸漏。心善解脱。若明日若後日。不作是念。自然神力。能令今日若明日後日。不起諸漏。心善解脱。彼已隨時。増上戒學。増上意學。増上慧學已。隨彼時節。自得不起諸漏。心善解脱。譬如比丘伏鷄生卵。若十乃至十二。隨時消息。冷暖愛護。彼伏鷄。不作是念。我今日若明日後日。當以口啄。若以瓜刮。令其兒安隱得生。然其伏鷄。善伏其子。愛護隨時。其子自然安隱得生。如是比丘。善學三學。隨其時節。自得不起諸漏。心善解脱。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻212頁a段24行-b段17行)

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースより

  • 国訳一切経阿含部2巻291頁

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