続・琴のたとえ|「どうしたら良い音が出るのか?」から考える

ちしょう
ちしょう

本記事は「雑阿含経巻第9-254」の内容を基に作りました。

前回「琴のたとえ」の続きとなります。

 

ちしょう
ちしょう

前回の話では、修行をやめてしまいたいと悩んでいたソーナさんが、お釈迦さんに相談。そこで、自分が得意とする音楽、琴の楽器に喩えた話をお釈迦さんから聞きました。

 

そのお話に何か感じる所があったソーナさんは、引き続きお釈迦さんの弟子を続けることにしました。

 

 

 

ちしょう
ちしょう

今回の話は、それから、ソーナさんが無事、その迷いを解決した後のお話になります。

 

師匠であるお釈迦さんに自分が気づいたことを、報告しにいった所から、この会話ははじまります。

ちしょう
ちしょう

続・琴のたとえ

ソーナ
ソーナ

師匠。そして皆さんにお話ししたいことがあります。

お釈迦さん
お釈迦さん

どうしたのですか?

ソーナ
ソーナ

以前、私が修行をやめたい、弟子をやめたいと言っていた時のことなんですが。

弟子1
弟子1

あ~、そんなことありましたね(笑)

ソーナ
ソーナ

あの時は、お世話になりました。

弟子2
弟子2

いえいえ。私たちもよい勉強になりましたから。

お釈迦さん
お釈迦さん

それで今回、お話したいこととは?

ソーナ
ソーナ

はい。結論から申しますと、私、あの時の師匠の教えが、どういうことか、ようやく腑に落ちたのです。

弟子1
弟子1

えっ!? それって、悟ったってことですか?

ソーナ
ソーナ

いや、別に悟りを得たとか、得ていないとか、そういう話ではありません。

ソーナ
ソーナ

たとえ、悟りを得なくても、修行の道を歩んでいれば、その道がそのまま悟りといいますか……、なんて言いますか……。

弟子2
弟子2

ソーナ
ソーナ

私はまだまだ知らないことばかりです。学びの道を歩んでいます。

弟子2
弟子2

じゃぁ悟っていないのですね?

欲望や怒りといった煩悩が尽きる、そんな境地には至っていないということですよね?

ソーナ
ソーナ

まぁ、それはそうなんですが……

お釈迦さん
お釈迦さん

いいですよ。思うように話してみてください。

ソーナ
ソーナ

未だに、煩悩を尽くさず、悟りを得ていない。

でもその人が、学びの道にあって、学ぼうという向上心を持ち続けているのならば、もう学ぶということは成就し成し遂げています。

ソーナ
ソーナ

私は、そんな学びの道、修行の道を歩んでいることに、ようやく気がつきました。

弟子1
弟子1

んー。私にはよくわかんないので、順を追って説明してもらえますか?

弟子2
弟子2

そうですね。弟子をやめたいと思った時の話、以前した「琴のたとえ」話が何か関係しているのではないですか?

ソーナ
ソーナ

確かにあの「琴のたとえ」話は、私にとって、大きな出来事でした。もし、お釈迦さんとの思い出を教えてと言われたら、私はその話をするでしょう。

ソーナ
ソーナ

あの時、私は、修行をやめたいと思っていました。

弟子2
弟子2

そうですね。元々、ソーナさんは頑張り屋さんでしたから、気を張り詰めすぎて、心身ともに、だいぶ、疲れていましたよね。

ソーナ
ソーナ

そうですね。師匠に言われた通りに、日々の行動をしていました。

修行に励んでいるといえば、聞こえはいいですが、本当に、言われた通りに、日々の行動を重ねていました。

弟子1
弟子1

一挙手一投足が、本当に師匠や仲間周りのいう通り、理想通りに動いているように見えて、私は本当に「すごいな、頑張っているな」と思っていましたよ。

ソーナ
ソーナ

皆さんには「修行やめたい」と言い出すまでの私がそのように見えていたのですね。

確かに、頑張っていました。必死でした。

ソーナ
ソーナ

ただ、頑張って頑張って、ひたすら熱心に、言われた通りにやっているのに、悟れない。悟りを得ることができない。

 

何も成果が得られないことに、私は焦りを感じました。

 

その焦りは、いつしか脅迫観念みたいになっていました。

「もっと頑張らなきゃ」

「これまで以上に頑張らなければならない」

「ここまで頑張ってもダメなら、更にもっと頑張らなければダメなんだ」って……。

弟子2
弟子2

あの頑張りの裏にはそんな想いがあったんですか……

ソーナ
ソーナ

そして、限界まで来てしまったとき、もう諦めちゃったんです。

これ以上は続けられない。自分にはもう無理だと。

弟子2
弟子2

あの頑張りが、焦りや脅迫観念になっていたのなら、そりゃ無理もないですね。

ソーナ
ソーナ

確かに……。あの時の私にとって諦める(明らめる)は、ギブアップと同じ意味だったのかもしれませんね。

弟子1
弟子1

だから修行をやめたい、弟子をやめたいと思っちゃったんですね。

ソーナ
ソーナ

「修行を頑張らなければ!」と張り詰めた私の心は、もうすでに、プツンと切れてしまっていたのでしょう。

 

「あなたの頑張りは、まるで張り詰めた、今にも切れてしまいそうな弦のようです」と、あの時、お釈迦さんししょうに言われました。

 

後になって、私の修行が、私の行為が、私の頑張りが、硬く張られた琴の弦のようになっていたことに気がつきました。

弟子2
弟子2

あの時は「とりあえず落ち着いてください、肩の力を抜いてください」って言っても、その声が届きにくかったですもんね。

弟子1
弟子1

そだね。なのに「力を抜いてください」って言っているだけなのに、弟子やめちゃうって、全部投げ出すって、聞かなかったですもんね。

ソーナ
ソーナ

あの時の私は、緩めることにも精いっぱいになっちゃってたんですよ。「頑張れ、頑張れ」といつもりきんでいましたから。

弟子1
弟子1

りきみすぎて、自分でも気づかないうちに、握り拳になっている。

常に手がグーになるほど、力が入っているから、「とりあえず、力抜いて、手を広げてください」っていうと、今度は力いっぱい、手をパーにしちゃうような感じでしたよ。

ソーナ
ソーナ

まさにそんな感じですね。

だから「頑張る」という選択肢も、「緩める」という選択肢も、結局、「止める」ってことになっちゃったんでしょうね。

弟子2
弟子2

そう考えると不思議ですね。

頑張っても、緩めても、「止める」という結果になっているってのは……。

ソーナ
ソーナ

だからこそ、琴の話は私にとって、とてもありがたい話でした。

「琴を弾く時どうしたら良い音が出るか」と考えるように、私は修行についても同様に考えることにしたんです。

弟子1
弟子1

弦を硬く張りすぎても良い音は出ない。

張れば張るほど、いい音がでるというわけではない。

むしろ、張りすぎれば、音すら出なくなってしまう。

ソーナ
ソーナ

頑張れば頑張るほど、良いというものはなない。

むしろ、張り詰めすぎれば、無理が来てしまう。

 

「琴なら音がでなくなる」つまり「修行なら修行でなくなる」と私は考えるようになりました。

弟子2
弟子2

弦を緩めすぎても、良い音はでない。

緩めれば緩めるほど、いい音が出るというわけではない。

むしろ、緩めすぎれば、音すらでなくなってしまう。

ソーナ
ソーナ

緩めれば緩めるほど、良いというものではない。

むしろ、緩めすぎれば、たるんでしまう。怠けてしまう。

 

「琴なら音がでなくなる」つまり「修行なら修行でなくなる」と私は考えるようになりました。

ソーナ
ソーナ

そう考えると、自然と修行に向き合うことができました。

弟子2
弟子2

それで、修行でその「良い音」が見つかったのですか?

ソーナ
ソーナ

そうですね。自分にとっての「良い音」は見つかりましたよ。

たから無理なく、そしてまた堕落することなく、今でも修行が成り立っているわけですから。

弟子2
弟子2

修行で「良い音」を見つけたということは、悟ったということですか?

ソーナ
ソーナ

「良い音」を悟るに気づくという意味で、使うなら、別に間違いではないと思いますけど。

弟子1
弟子1

つまり、その「良い音」が悟りということですか?

ソーナ
ソーナ

そう言ってしまったら、全然違うと思います。

弟子2
弟子2

それはどういうことですか?

ソーナ
ソーナ

琴を弾く時、どうしたら「良い音」がなりますか?

弟子1
弟子1

え、だから、強すぎず、緩めすぎず、ちょうどいい所(正解)を見つけるのでしょう。

ソーナ
ソーナ

まぁ、そうなんですが、そのちょうど良い所を見つけると「良い音」が出せます。つまり、そこが正解です。ですが……

弟子2
弟子2

その正解こたえが悟りなのではなくて?

だって「良い音」がなるのでしょう?

ソーナ
ソーナ

いや、確かにその時「良い音」がなったとしても、その場限りのことですよ。真剣に琴を弾こうと思えば、琴を弾くのは、一回限りのことではありませんよね。

弟子2
弟子2

ああ、確かに。琴を弾くって一回限りのことではないですもんね。

ソーナ
ソーナ

「琴を弾く時、どうしたら良い音がなるか?」じゃなくて、「琴を弾く時、毎回毎回、どうしたら良い音がなるか?」ってことを、自然に考え始めますよね。

弟子1
弟子1

毎回、毎回、自分の具合も、周りの状況も全然違いますもんね。

弟子2
弟子2

毎回毎回、正解こたえは違うということですね。

それは音楽や修行に限らず、なんでもそうですよね。

ソーナ
ソーナ

そうです。あらゆるものは変化しています。常に変わらないものなどありません。

ソーナ
ソーナ

それで、琴を弾く時、毎回毎回、どうしたら「良い音」がなるでしょうか?

弟子1
弟子1

え、だから、琴を弾く毎に、強すぎず、緩めすぎず、ちょうどいい所(正解)を見つけるのでしょう。

ソーナ
ソーナ

たとえば琴でいえば、「調律チューニング」があります。

弟子2
弟子2

楽器を弾く度に、ちょうど良い音程に合わせるわけですね。

ソーナ
ソーナ

はい。もちろん、琴の具合や演奏する場所の温度や湿度にもよりますし、そもそも演奏仲間(オーケストラ)でも、合わせる音程が違います。

弟子1
弟子1

前回の正解はここ(赤線)だった。

としても・・・・・・

弟子2
弟子2

今回の正解はここ(赤線)だったり……

弟子1
弟子1

人間だからたまに失敗することもあるよね。

 

ソーナ
ソーナ

もちろん、失敗がないとは言えませんよね。

でもそんなときは、すぐまた修正しますよね。

ソーナ
ソーナ

その都度、その都度、繰り返し、繰り返し、調律を行います。

弟子2
弟子2

「繰り返す」って同じことを何回も行う事だよね。

ソーナ
ソーナ

そうやって、何回やったかなんて、そのうち数えなくなりますよね。でも、その毎回、毎回は決して同じではありません。

弟子1
弟子1

同じことを繰り返しているのに、毎回、毎回、違うのですね。

ソーナ
ソーナ

やがて、一つ一つの線が連なって、いつしか、一本の線には見えなくなります。

ソーナ
ソーナ

私たちは、そうやって、一歩一歩、学んでいくわけですよね。

その一歩一歩が、その足跡が、やがて道みたいになっているんじゃないですか。

弟子2
弟子2

そういえば、道というものは、元々、自然にはないものですね。

 

人や獣が歩きやすい場所を通っていくうちに、草が踏み分けられ、土が踏み固められ、次第に歩きやすくなった場所を更にまた歩く。そして草も生えにくくなって、またさらに歩きやすくなる。

 

そうやって次第に、自然と出来上がっていったのが道と呼ばれるんだって。

ソーナ
ソーナ

その一歩一歩は自分だけでなく、他の人達、昔の人達も歩いた場所。修行でいうなら、お釈迦さんししょうが、そして、それを教えられた他の弟子達も含めて、歩いている場所が、道になっている。

 

だから仏道ともいうのでしょう。

弟子1
弟子1

そういえば、お釈迦さんししょうも自分が道(仏道)を作ったわけじゃなく、昔の人達が歩んだ古道を見つけただけって話してましたよね?

ソーナ
ソーナ

そして、その道は、私達に、歩むべき所、進むべき方向を教えてくれます。

弟子2
弟子2

道がなければ迷うけど、道があるなら、そこが歩く所と理解できますもんね。

ソーナ
ソーナ

だから、一歩一歩(修行)そのものが道であって、その道が自分の進むべき方向を示す道筋(悟り)なんじゃないかなと。

 

学び(修行)の道を歩んでいることが、学びの成就(悟り)になるとはそういうことです。

お釈迦さん
お釈迦さん

なるほど。

ところで、どうしたら「良い演奏」となるのでしょうかね?

弟子1
弟子1

え?

弟子2
弟子2

ん?

ソーナ
ソーナ

そうなんですよね。琴を弾くことに真剣に向き合っていれば、自然と、そう考え始めますよね。話しているだけでは、見失いがちなんですけど……。

ソーナ
ソーナ

本番で、良い音をだすだけでは、いい演奏とはいえないし、闇雲に練習したとしても、いい演奏ができるわけではない。

ソーナ
ソーナ

でも、それは、修行と向き合っているからこそ、自然と見えてくることなのでしょうね。


補足

  • 出典:雑阿含経巻第9-254

時尊者二十億耳常念世尊説彈琴譬。獨靜禪思。如上所説。乃至漏盡心得解脱。成阿羅漢。爾時尊者二十億耳得阿羅漢。内覺解脱喜樂。作是念。我今應往問訊世尊。爾時尊者二十億耳往詣佛所。稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。於世尊法中。得阿羅漢。盡諸有漏。所作已作。捨離重擔。逮得己利。盡諸有結。正智心解脱。當於爾時解脱六處。云何爲六。離欲解脱。離恚解脱。遠離解脱。愛盡解脱。諸取解脱。心不忘念解脱。世尊。若有依少信心而言離欲解脱此非所應。貪恚癡盡是名眞實離欲解脱。若復有人。依少持戒而言我得離恚解脱。此亦不應。貪恚癡盡是名眞實解脱。若復有人。依於修習利養遠離而言遠離解脱。是亦不應。貪恚癡盡是眞實遠離解脱。貪恚癡盡亦名離愛。亦名離取。亦名離忘念解脱。如是世尊。若諸比丘。未得羅漢。未盡諸漏。於此六處。不得解脱。若復比丘。在於學地。未得増上樂涅槃。習向心住。爾時成就學戒。成就學根。後時當得漏盡。無漏心解脱乃至自知不受後有。當於爾時。得無學戒。得無學諸根。譬如嬰童愚小仰臥。爾時成就童子諸根。彼於後時。漸漸増長。諸根成就。當於爾時。成就長者諸根。在學地者。亦復如是。未得増上安樂。乃至成就無學戒無學諸根。若眼常識色。終不能妨心解脱慧解脱。意堅住故。内修無量善解脱。觀察生滅乃至無常。耳識聲鼻識香舌識味身識觸意識法。不能妨心解脱慧解脱。意堅住故。内修無量善解脱。觀察生滅。譬如村邑近大石山。不斷不壞不穿。一向厚密。假使四方風吹。不能動搖不能穿過。彼無學者。亦復如是。眼常識色。乃至意常識法。不能妨心解脱慧解脱。意堅住故。内修無量善解脱。觀察生滅。爾時二十億耳。重説偈言 離欲心解脱 無恚脱亦然 遠離心解脱 貪愛永無餘 諸取心解脱 及意不忘念 曉了入處生 於彼心解脱 彼心解脱者 比丘意止息 諸所作已作 更不作所作 猶如大石山 四風不能動 色聲香味觸 及法之好惡 六入處常對 不能動其心 心常住堅固 諦觀法生滅尊者二十億耳説是法時。大師心悦。諸多聞梵行者。聞尊者二十億耳所説。皆大歡喜。爾時尊者二十億耳聞佛説法。歡喜隨喜。作禮而去爾時世尊知二十億耳去不久。告諸比丘。善心解脱者。應如是記説。如二十億耳以智記説。亦不自擧。亦不下他。正説其義。非如増上慢者。不得其義。而自稱歎得過人法。自取損減
(大正No.99, 2巻62頁c段21行 – 63頁b段18行)

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースより

国訳一切経阿含部1巻210頁

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