坐禅中になる木版と鐘はどうして鳴らすの?

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坐禅中になる木版や鐘。

荒村寺の坐禅会では坐禅開始前に木版を鳴らし、また坐禅開始直前に鐘を鳴らします。

以前、木版の合図と鐘の合図を両方とも坐禅開始の合図として受け取られている事があったので、坐禅中になる木版と鐘の意味の違いを載せておきます。

木版について

木版とはこれの事です。

坐禅会にお越しの方、または上記リンクの放送を見て頂いた方は分かると思いますが、写真下側の木槌で、木の板を叩きます。

これは基本的に、「大衆に諸事を報知するために設けられたもの」とされています。

大衆とは、現在でも多くの人達(大衆たいしゅう)という意味用いられます。しかし、仏教では大衆だいしゅと読み、仏法を聞く人達の事を指します。禅では特に修行者を意味します。

要するに、木版は修行者に「ここでこんな行事を行いますよ~、集まって下さい!」と知らせるものです。

なので、これは正確には坐禅開始の合図ではありません。

荒村寺の禅教室では、初めて来られる方には、まず坐禅指導を行います。それ以外の参禅者の方は、坐禅指導の間に受付に来てもらい、待ってもらっています。

なので、坐禅指導が終わった後、参禅者の皆さんに本堂に集まってほしいので、坐禅が始まる少し前に「どうぞ、来て下さい~」というお知らせの意味で鳴らしております。

ちなみに、木版に書かれている文字が気になる方は、仏教エピソード31「最期の言葉」をご覧いただければと思います。

坐禅中になる鐘について

坐禅中に用いられる鐘。荒村寺では主にこの釣鐘を使います。

除夜の鐘とかでイメージする大きな鐘とは違い、こちらは小さい鐘です。

坐禅では、この鐘を三回たたく止静鐘しじょうしょう、二回たたく経行鐘きんひんしょう、一回たたく抽解鐘ちゅうかいしょう放禅鐘ほうぜんしょうという四種類の意味があります。

止静鐘

鐘を三回たたくことから、止静三声さんせいとも言われます。

「止」に「静」と文字からも推察できるように、静かに止まる。

つまり、これが坐禅のはじまりの合図です。

そして止静鐘が鳴ったらと、基本的には坐禅堂の出入りはしてはいけません。

ただ荒村寺の坐禅会では、無理して坐ってほしくないので、どうしても体調不良でこれ以上続けられないと感じた場合は、退堂(退席)してもいいと言っています。

ですが、基本的に出入り禁止なわけですから、途中入堂(入場)はできません。

ごくたまに遅れて来られる方を外単(坐禅堂外側の坐る場所)に案内するのはそのためです。

途中から入堂して、坐っている方の邪魔にならないように配慮していると思っていただければいいかと思います。

経行鐘

鐘を二回叩く、経行鐘。

この経行鐘は坐禅が終わる時に叩いていることもあって、坐禅終了の合図と受け取っている方も多いと思います。

しかし、実は鐘を叩く回数で意味が違い、坐禅中に鐘が二回なったら、経行を始める合図です。

経行というのは、簡単にいえば、歩く坐禅です。

一足半歩、一呼吸の間に、足の甲の長さの半分だけ歩を進めていきます。

ちなみに坐禅終了の合図は鐘一回なので、鐘を叩く回数が、一回か二回が聞き分けるだけで、経行をするのかどうかわかります。

抽解鐘

鐘を一回叩く、抽解鐘は、経行の後に一回叩く鐘のことです。

なので経行の終了の合図と受け取られる方も多いと思いますが、実は意味が違います。

確かに、経行の終わりに叩く鐘ではあるのですが、抽解とは、抽き解く(ぬきほどく)と読めるように、元々の意味は、お袈裟を外し、休憩することを意味します。

お袈裟は簡単に言えば、お坊さんのユニフォームですね。

転じて、坐禅と坐禅の間に坐禅堂を出て、少し休憩することを意味します。

なので、厳密に言えば、休憩の合図と言った方がいいでしょう。

放禅鐘

上記の抽解鐘同様、放禅鐘も鐘を一回叩きます。

禅を放つ。つまり坐禅をやめること。

要するにこちらが、坐禅終了の合図となります。

ちなみに坐禅終了の合図は、この放禅鐘以外にも「開静かいじょう」という合図があります。

その場合は「雲版うんぱん」という鳴らしもので合図します。

最後に

「わざわざ、鐘を叩いたり、木版叩いたり、こんなことせずとも、口で言えばいいじゃん」

ひょっとしたらそのように思う方もいるかもしれません。実は私もそう思っていたこともあります。

ただこの鳴らしものにも教えてくれていることがあるんじゃないかと今では思っています。

坐禅堂は三黙道場の一つ、つまりしゃべってはいけません。言葉を使わない代わりに、このような鳴らしもので伝えます。

あるいは鳴らしものを用いることで、声では届かないような遠くの場所にも伝えることができます。

「言葉を使わずとも私達は相手に伝えることができる。伝わるものがある」

そんなことを鳴らしものは伝えてくれているのかもしれません。

それこそ、昔の人がそれを意図して鳴らしものを用いたのだとしたら、遠い遠い昔から今この時へと、時代を超えて、そのままの音色を伝えてくれているわけですから、すごく興味深いことだと私は思うのです。

以心伝心という禅の言葉にも、なんだか通じる気がしませんか?

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