
本記事は「雑阿含経巻第27-713,714」の内容をもとに作りました。
言っている事は同じでも中身が違う

こんにちは。あなたの師匠であるゴータマさんの教えについて、少しばかり質問があるんだが、いいですかね?

えっと、何でしょう?

「煩悩を滅しなさい」「修行しなさい」とゴータマさんは弟子達に教えているようですが、実は私もまた皆に同じように言っているのですよ。

ゴータマさんは少々人気があるようですが、私とゴータマさんの教えの一体何が違うというのでしょうか。

え? 何が言いたいんですか?

私とゴータマさんの言っていることに違いなんてないでしょう。
つまり私もあなたの師匠と同等ということです。わかるでしょう?

いや。申し訳ないですけど、あなたと師匠は違うと思いますよ。

いいえ。「煩悩を滅しなさい」「修行しなさい」と言っていることは一緒です。

確かに言っていることは同じですが、何か違うと思います。

何か違うって何ですか。言っていることは一緒なんでしょう。だから私にもそれなりの敬意をもって接するべきではありませんか。

しつこいな。違うって言っているでしょう!

まぁまぁ。抑えて。

ここは一度、師匠に相談にいきましょう。

弟子達はお釈迦さんの所へ戻り、事の顛末を話しました。

ということがありまして……。

確かに「煩悩を滅しなさい」「修行しなさい」と師匠から聞かされていますが、師匠は彼とは違うと思うのです。

そうです。上手く言えないんですが、言っていることは同じでも何か違うんですよ。

上手く反論できなかったのですが、一体、何が違うのでしょう?

煩悩とは何ですか? 修行とは何ですか?

そんな一言で煩悩・修行と言っても、説明できません。

そうです。例えば「修行って何?」と言われても、私達のしていることを一つ一つ説明しようとしたら、言い尽くせません。

「歩くって何ですか?」と質問されたら何て答えるかなぁ?

実際に歩くということは人間当たり前にやっていますが、人が歩くメカニズムを説明しようとするとかなり複雑な話になります。

筋肉の動き、脳からの伝達、重力、地面との接地点、重心の入れ替わり、えっと他には……。

どういった理屈で歩けるのか。それを言葉だけで説明するのって複雑ですよね。

そうそう。それと同じように「修行って何?」と言われても説明するのは難しいのです。

それに「一つの足が地面についたまま、足を入れ替えて、進んでいくのが歩く」と表面的に言葉にすることができますが、歩くにも色んな歩き方があるように、中身が欠けている気がしますよね。

そうですね。それを心得ているのであれば、もう少し深めて、修行について話しましょうか。

修行にも様々な言葉を用いて表現していますね。七覚支の話は言ったことありましたか?

私は初耳です。

そうですか。簡単に言うとこういう事です。

これまでの自分の言葉や行いを注意深く思い起こし(念)
それらをよく分別して考え(択法)、
努力する(精進)、
努力するものは充実感や喜びが生じ(喜)、
喜ぶことによって身体が軽やかになり(軽安)、
それにより心が安らかになり(定)、
安定した心をよく平等に観察する(捨)

念・択法・精進・喜・軽安・定・捨、この七つで七覚支と言います。

へぇ。我々の仏教の修行ってそういう修行をしているのですか。

八正道や四念処とか、修行の話として、他にもいろんな言葉を聞いたことが有るのですが。

そうですね。なので、七覚支も修行について説く時に用いる、表現の一つです。

先ほど、上手く反論できなかったと言っていましたが、もし、また同じようなケースがあれば、その人にこのように問うてみてください。

「もし、心が憔悴して、沈んでいる時には、どうしたらいいのでしょうか?」と。
「もし、心が弾んで、浮き足だっている時には、どうしたらいいのでしょうか?」と。

このように質問して、もしあちらの方が何も心得ていないのであれば、きっと右往左往するでしょう。

「修行は修行だ!」とか、
「どんな時も修行をしていていいのだ!」とか?

はい。具体的にどのような行動を、修行をしたらいいのか、それを聞きなさい。そして怒ったり、頭を垂れて何も答えられなかったら、やはりそれは私の教えとは違うものでしょう。

では、師匠はなんと答えるのですか?

例えば私は、心が沈んでいる時には、七覚支でいう軽安・定・捨はお勧めしません。なぜなら余計沈んでしまうからです。

そもそも、心沈んでいる時は、心軽やか(軽安)しようと思ってもできないもんはできないね。

これまでの自分の言葉や行いを注意深く思い起こした時に、心沈むということは、悩んでいるってことですよね。

それでも無理に心軽やかにしろっていわれたら、できないことに不安を感じそうだね。そんな不安定な状態では、心安らかな状態(定)も成り立たない。

不安定になった心では、平等に観察する(捨)こということも成り立たない、冷静に物事を観察できないって事かな。

そんな複雑に考えなくても、心が沈んでいる時に、元気だせって言われてもできないし、不安な中、一人で悶々と考えていると、人間悪いほうに物事を考えてしまいがちってことなんじゃないの?

言葉で考えるよりも、何かの例えでイメージしたほうが伝わるかもしれませんね。

例えば、火が小さい時に、もっと燃やそうと思って炭を足していくようなものですね。炭をどんどん足しても、その火は消えてしまうでしょう?

なるほど。マッチにような小さな火で直接炭に火をつけようとしても、全然燃えないのと一緒ということですね。

炭は薪と違って、火を近づけたからといって簡単には火がつかないもんね。

火起こしって知らないと意外難しいよね。

反対に心が弾んでいる時は、七覚支でいう択法・精進・喜はお勧めしません。なぜなら余計浮き足立ってしまうからです。

確かに心弾んでいるとに分別して考えろ(択法)って言われても、じっくり考えずに、軽率な考えを起こしてしまいそうですね。

これまでの自分の言葉や行いを注意深く思い起こした時に、心弾むってことは、結構テンション高くなっているってことだよね。

軽率な考えを起こしてしまいそうな中での努力(精進)は、努力の方向性を間違ってしまいそうだね。場合によっては暴走ってことなのかな。

間違った努力をして喜ぶ(喜)って、それってただの自己満足なんじゃないの?

そんな複雑に考えなくても、テンション上がっている時に、冷静に分別しろって言われてもできないし、軽率に考えの中、行動を起こしても、ロクなことにはならないってことなんじゃない?

こちらもイメージで例えるなら……

例えば、ゴォゴォと燃え上がっている炎を小さくしようとして、乾いた薪で蓋をするようなものですね。薪をどんどん足しても、火はますます燃えるでしょう?

そりゃあ、ゴォゴォと燃えている炎に、乾いた薪を近づけたら、燃えますよね。

ああ、でも一瞬だけ蓋をして弱まったように見えなくもないよね。一瞬で火力あがりますけど。
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