第二の矢のたとえ|仏弟子と凡夫(仏弟子でない人)の違い

ちしょう
ちしょう

本記事は「雑阿含経巻第17-470」の内容を基に作りました。

仏弟子と凡夫(仏弟子でない人)の違いは?

弟子2
弟子2

お釈迦さん師匠。質問があるのですが、よろしいでしょうか?

お釈迦さん
お釈迦さん

何ですか?

弟子2
弟子2

仏弟子と凡夫ぼんぷ(仏弟子ではない人)の違いって何ですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

違いですか?

弟子2
弟子2

はい。私達は人間です。仏弟子であれ、誰であれ、人間である以上、苦楽を感じ、また喜怒哀楽などの感情が生まれてきます。

弟子1
弟子1

快く感じたり、不快に感じたり、また喜んだり、憂いたりと、私達仏弟子も、いろんな感情が湧いてきますね。

弟子2
弟子2

凡夫も仏弟子も共に、私達は人間であることに変わりありません。では、凡夫と仏弟子と一体何が違うのでしょうか?

お釈迦さん
お釈迦さん

凡夫と仏弟子の何が違うのか。

それは二つ目の矢を受けるか否かの違いなのです。

矢のたとえ|「受」の教え(仏教用語)

弟子2
弟子2

二つ目の矢? それはどういう意味ですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

人間である以上、私達は物事、出来事等から何かを感じ、受け取ります。苦・楽を感じたり、そして喜怒哀楽などの様々な感情が生まれてきます。

 

中には、そういう感情が一切生まれてこない、いわゆる無関心ということもあります。

お釈迦さん
お釈迦さん

そのような苦楽などを感受する作用や、そこから生まれた感情、また無関心というのも含め、「じゅ」と呼びます。

弟子2
弟子2

「受」ですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。仏法を知らない凡夫は、二度目の「受」を感じます。

 

それは例えるなら、第一の矢に刺され、そして第二の矢にも刺されるようなものです。

弟子1
弟子1

ふむ……

お釈迦さん
お釈迦さん

一方、仏法を聞ける仏弟子は、ただ一度目の「受」を感じるだけなのです。

 

それは例えるなら第一の矢に刺され、第二の矢を受けないようなものです。

弟子1
弟子1

凡夫は矢を二回受けるけど、仏弟子は、第二発目の矢は上手く対応して当たらないようにしているということですね。

弟子2
弟子2

矢のたとえはわかりやすいのですが、具体的に言えば、どういう事ですか?

弟子2
弟子2

私達人間の身に何が起こっているというのですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。例えば……、花は好きですか?

弟子1
弟子1

正直、あまり興味ないですね……

弟子2
弟子2

私は好きですね。花は見ていて「きれいだな」って思います。

それにプレゼントされるとうれしいですから。

弟子1
弟子1

ああ、確かに。私もプレゼントされるとうれしいかも。

お釈迦さん
お釈迦さん

欲しいですか?

弟子1
弟子1

え、お釈迦さん師匠がお花をくれるんですか?

それはうれしいですね。

弟子1
弟子1

もちろん、欲しいです。

お釈迦さん
お釈迦さん

ならば、そのあたりの草なら、欲しいですか?

弟子1
弟子1

えっ!? 草? なんで?

弟子1
弟子1

雑草なんて嫌ですよ。いらないです。

弟子2
弟子2

私も雑草は嫌ですね。もらっても迷惑じゃないですか。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうです。私達人間には、そのようなものがあるのですよ。

 

反応や感情、思考や心といったようなものが。

弟子1
弟子1

今の例話だったんですねw

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。今回の対象は草や花ですが、私達人間は、その対象に対し、まず大きく分けて、三つの反応を示します。

 

「楽」「苦」「無関心」の三つです。

弟子2
弟子2

興味・関心を持てば、それが自分にとって「楽(+)」「苦(ー)」か感じる。

弟子2
弟子2

「楽(好)」「苦(嫌)」って言ってもいいですかね。

弟子1
弟子1

あるいは、そもそも興味・関心を持たない「無関心(+でも-でもない)」ってことですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

これらは、感受作用と言えばいいですかね。

このような心の働きを私は「受」と呼びます。

弟子1
弟子1

つまりこれが「第一の矢」ってことですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

その通りです。

弟子2
弟子2

じゃぁ、第二の矢は、そのあとにくる矢ってことですね?

お釈迦さん
お釈迦さん

そうなりますね。

弟子2
弟子2

さきほどの例話を挙げると、花なら「楽(好)」と感じる。

 

さらに、それは「快(こころよい)」という感覚が生まれ、「嬉(うれしい)」といった感情が生まれる。

 

そして、「欲(欲しい)」という欲求が生まれる。

お釈迦さん
お釈迦さん

その通りです。

弟子2
弟子2

ならば、「第二の矢」というのは、受の後に生まれる「快」の感覚、「嬉」の感情、「欲」という欲求、を指すってことですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

それは違いますね。

第二の矢とは?|「五蘊」の教え(仏教用語)

弟子2
弟子2

え?

快感や感情、欲求や欲望が「第二の矢」ではないのですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

快感や感情、欲求などは、謂わば、「受」とは異なる心の働きです。

 

私は、感情や欲求を無くしなさいとは、言っていませんよ。

「二度目の受」が「第二の矢」と言っているのです。

弟子1
弟子1
弟子2
弟子2

そうか……。ごめんなさい。先ほどの私の発言は、完全にミスリードですね。

弟子2
弟子2

「受」とは異なる心の働きも、人間である以上、兼ね備えているものですもんね。

お釈迦さん
お釈迦さん

その通りです。自己を観察してみてください。

弟子1
弟子1

そうやって自己を観察・分析しても、いろんな見方があるじゃないですか。

 

お釈迦さん師匠は、例えば、どのように分析しているんですか?

 

お釈迦さん
お釈迦さん

ふむ。そうですね。「五蘊ごうん」というのですが。

 

これは、見方の一つですので、あくまでも参考に。

弟子2
弟子2

はい。参考までに教えてください。

お釈迦さん
お釈迦さん

仮に、この自己というものを「しき」「じゅ」「そう」「ぎょう」「しき」の五つに分けて考えてみましょう。

弟子1

弟子1
弟子1

自己を仮に五つ分けて「五蘊ごうん」。

逆に言えば、五つまとめて「自己」ってことですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

「色」は、色や形という意味。自己でいうと、「身体」ということですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

そして、「じゅ」「そう」「ぎょう」「しき」は、自己でいうと、「心」を指します。

弟子2
弟子2

色は、この身ですか。

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。私達は、各感覚器官から外部の刺激を受けて、様々な出来事を感じ取ります。

お釈迦さん
お釈迦さん

「眼からは、色や形の情報を受けとる」といった具合に

弟子2
弟子2

耳は声、音、鼻は香、舌は味か。五感ですね。

弟子1
弟子1

あと触覚もね。それと、知覚という感覚はどう考えるのでしょうかね?

お釈迦さん
お釈迦さん

そこを詳細に話すと、また別の話になってしまうので、今回は、「色」を大雑把に「身体」ということで考えていただいて結構です。

弟子2
弟子2

手や胴体はもちろん、頭も「身体」ですね。血管や神経伝達なんかも、「身体」の感覚や反応と考えていいのでしょうか。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。ですので、知覚した事によって起こり得る身体の反応や感覚も、場合によっては「身体」の反応と捉えたほうがいいですね。

弟子2
弟子2

例えば、ドーパミンとか、「脳内物質が出る」ということですかね。

弟子1
弟子1

話だけじゃわかりにくいので、イラストでまとめると、「色」とは、こういうことですね。

弟子2
弟子2

花の例話であれば、「自分が花をもらう」ことですね。

「花を見る」ということでもいいですね。

 

いずれにせよ、「自己と花が出会う」ことですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。そして「受」とは、心の働き。先ほど言ったように、感受作用です。

お釈迦さん
お釈迦さん

「想」は、イメージや概念。「行」は行動原理、「識」は認識といった所ですかね。

弟子1
弟子1

お釈迦さん
お釈迦さん

「受」は感受作用。「楽」「苦」「無関心」の三つと、先ほどまで述べた通りです。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

花の印象は、「楽(+)」の印象を受ける。

お釈迦さん
お釈迦さん

次に、「想」ですが、頭の中にイメージが湧いてくる。

イメージ=画像と置き換えてもわかりやすいでしょうね。

弟子1
弟子1

お釈迦さん
お釈迦さん

そして「想」の概念とは、言葉に置き換えたらわかりやすいうでしょう。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

花にもイメージがありますね。

「これは花だ」「きれいだな」「プレゼントかな」「うれしい」など、いろいろと連想しますね。

弟子1
弟子1

逆に草でも、いろんなイメージ、連想するね。

お釈迦さん
お釈迦さん

「行」というのは、簡単にいえば、欲求です。

 

自分に好ましいもの、自分に近づけようとする欲求が生まれます。

 

弟子1
弟子1

お釈迦さん
お釈迦さん

自分に不都合なものは、自分から遠ざけようとする欲求が生まれます。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

花なら「欲しい」と望む。自分に近づけようとする。これが欲望ですね。

 

反対に草なら「いらない」と欲する。できるだけ遠ざけようとする。これが拒否ということですか。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

余談ですが、「無関心」で、なんとも思わないと想うのも「想」だし、近づけたり遠ざけたり何にもしたくないという欲求も「行」という風に考えられるね。

 

弟子2
弟子2

説明するとややこしくなっちゃうけど……

お釈迦さん
お釈迦さん

どうしても説明するとややこしくなってしまいますが、私達の内面でどのようなことが起こっているか、私達は何となくでも、分かるでしょう?

お釈迦さん
お釈迦さん

「快く感じる」

「うれしいという感情がある」

「自分はこれが欲しいんだ」

 

こういう感じが「分かる」のが私達人間です。

こうして「認識」している。これが「識」です。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

恋愛で例えるとこうですかね。

 

「色」:出会い

「受」:いいなぁ(好印象)

「想」:かわいい・かっこいい・やさしい・名前(○○さん)

「行」:もっと知りたい・お付き合いしたい・もっと一緒にいたい

「識」:自分は恋している

 

弟子1
弟子1

なるほど……

お釈迦さん
お釈迦さん

いずれにせよ、自己をよく観察してしてください。

五蘊から見える働きは、人間である以上、生じることです。

お釈迦さん
お釈迦さん

第一の「受」は、凡夫であれ、仏弟子であれ、人間誰しもが、受けます。

 

しかし、仏弟子は、第二の「受」を受けないのです。

 

弟子2
弟子2

つまり、身体で感じ、心で感じる。まずこの心に第一の矢が飛んでくる。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

「受」「想」「行」「識」と私達人間の心の働きが起こる。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

識:認識して、知覚する。

知覚するから意識する。

色:意識するから身体にもまた反応が起こる。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

といった具合で、二度目の「受」が生じて、第二の矢が飛んでくるわけですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。仏法を知らない凡夫は、例えば、自分の好ましいものに対して、快い感覚を受け、嬉しいという感情が生まれます。

 

そして更に、それを熱望したり、執着します。それ故に、飽くことなく貪り求める『貪欲』という煩悩に囚われてしまいます。

弟子2
弟子2

つまり「色→受→想→行→色→受(2回目)→想→行→識→……」といった具合になってしまうわけですね。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

例えば、花をもらって、快く感じ、うれしい、欲しい。

 

そこから更に、その経験や感覚自体が自分にとって、快くて、うれしいものだから、もっと欲しい。

弟子2
弟子2

色→受→想→行→色→受(2回目)→想→行→識→色→受(3回目)想→行→識→色……と何度でもループしていきますね。

弟子1
弟子1

弟子1
弟子1

これが、欲望がエスカレートしていくってことなんだろうね。

 

近づけたくて、近づけすぎて、もう一時も手離すことができない……こうなると、依存へとつながっていきますね。

お釈迦さん
お釈迦さん

一方、仏法の教えを聞ける仏弟子は、例えば、凡夫と同じく、自分の好ましいものに対して、快い感覚を受け、嬉しいという感情が生まれます。

 

しかしその快感に酔い痴れることがありません。それ故に『貪欲とんよく』の煩悩に染まることはありません。

弟子1
弟子1

お釈迦さん
お釈迦さん

例えばまた、仏法を知らない凡夫は、嫌悪するものに対して、不快な感覚を受け、苛立ちという感情が生まれます。

 

そして更に、それを憎み、憤怒し、また害そうとする心を起こします。それ故に、激しく怒り、憎しみ怨む『瞋恚しんに』という煩悩に囚われてしまいます。

弟子1
弟子1

遠ざけたくて、遠ざけて、必要以上に追いやってしまう。

これが攻撃、害することにつながるわけですね。

弟子2
弟子2

何度も、矢を受ける自分もつらいよね。

お釈迦さん
お釈迦さん

一方、仏法の教えを聞ける仏弟子は、例えば、凡夫と同じく、嫌悪するものに対して、不快な感覚を受け、苛立ちの感情が生まれます。

 

しかし、その不快感に振り回されることはありません。それ故に、『瞋恚』の煩悩に染まることはありません。

弟子2
弟子2

お釈迦さん
お釈迦さん

例えばまた、仏法を知らない凡夫は、自ら興味を抱かないものに対して、なんら感情を持たない、いわゆる無関心となります。

 

そして更に仏法であるこの「受」のことわりを知らないため、自らの関心事のみに心奪われ、視野が狭まります。

 

それ故に、道理や物事をあるがままに見て知ることができない『愚痴』という煩悩に囚われてしまいます。

弟子1
弟子1

自分の興味を抱くもの以外には無関心であり続けるということは、既知の範囲でしか物事を考えないということですものね。

 

無知のものは無知のままになってしまう。

弟子2
弟子2

これまでの話も、仏法の話ですが、仏法を知らない凡夫が、この仏法の話なんて、興味が無いと切り捨てれば、理解する機会も生まれないということですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

一方、仏法の教えを聞ける仏弟子は、自ら興味を抱かないものに対して、なんら感情を持たない、いわゆる無関心となります。

 

しかし、仏法の教えであるこの「受」の理を知っているため、自らの関心事以外にも気がつき、視野が広がります。

 

それ故に、『愚痴』の煩悩に染まることはありません。

弟子1
弟子1

弟子2
弟子2

無関心っていうけど、そこには全く心の働きが無いわけじゃないよね。

弟子1
弟子1

知らないことがあるということを知っているってことなのかもしれないね。

お釈迦さん
お釈迦さん

第二の矢を受けないとは、こういうことなのです

弟子2
弟子2

ありがとうございました。

補足

  • より原典に近い意訳
  • 出典:雑阿含経巻第17-470

(四七〇)如是我聞。一時佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時世尊告諸比丘。愚癡無聞凡夫。生苦樂受不苦不樂受。多聞聖弟子。亦生*苦樂受不苦不樂受。諸比丘。凡夫聖人。有何差別。諸比丘白佛。世尊。是法根法眼法依。善哉世尊。唯願廣説。諸比丘聞已。當受奉行。佛告諸比丘。愚癡無聞凡夫。身觸生諸受。苦痛逼迫。乃至奪命。憂愁啼哭。稱怨號呼佛告諸比丘。諦聽善思。當爲汝説。諸比丘。愚癡無聞凡夫。身觸生諸受。増諸苦痛。乃至奪命。愁憂稱怨。啼哭號呼。心生狂亂。當於爾時。増長二受。若身受若心受。譬如士夫身被雙毒箭極生苦痛。愚癡無聞凡夫。亦復如是。増長二受。身受心受。極生苦痛。所以者何。以彼愚癡無聞凡夫不了知故。於諸五欲。生樂受觸。受五欲樂。受五欲樂故。爲貪使所使。苦受觸故。則生瞋恚。生瞋恚故。爲恚使所使。於此二受。若集若滅若味若患若離。不如實知。不如實知故。生不苦不樂受。爲癡使所使。爲樂受所繋終不離。苦受所繋終不離。不苦不樂受所繋終不離。云何繋。謂爲貪恚癡所繋。爲生老病死憂悲惱苦所繋。多聞聖弟子。身觸生苦受。大苦逼迫。乃至奪命。不起憂悲稱怨。啼哭號呼。心亂發狂。當於爾時。唯生一受。所謂身受。不生心受。譬如士夫被一毒箭。不被第二毒箭。當於爾時。唯生一受。所謂身受。不生心受。爲樂受觸。不染欲樂。不染欲樂故。於彼樂受。貪使不使。於苦觸受。不生瞋恚。不生瞋恚故。恚使不使。於彼二使。集滅昧患離如實知。如實知故。不苦不樂受癡使不使。於彼樂受。解脱不繋。苦受不苦不樂受。解脱不繋。於何不繋。謂貪恚癡不繋。生老病死憂悲惱苦不繋。爾時世尊。即説偈言 多聞於苦樂 非不受覺知 彼於凡夫人 其實大有聞 樂受不放逸 苦觸不増憂 苦樂二倶捨 不順亦不違 比丘勤方便 正智不傾動 於此一切受 黠慧能了知 了知諸受故 現法盡諸漏 身死不墮數 永處般涅槃佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻119頁c段28行 – 120頁b段14行)

引用:SAT大正新脩大藏經テキストデータベース

国訳一切経阿含部2巻64頁

タイトルとURLをコピーしました