煩悩という言葉は、仏教用語の中では、世間一般に広く認知されている言葉ですが、仏教の経典には、煩悩を表す言葉のレパートリーが数多くあります。
例えば、惑、塵労、染、随眠、漏といったようになど、いろんな言葉で表されています。
これらは全て煩悩と同じ意味ですが……、違います。煩悩には様々な異名があると言えばいいでしょうか。
例えば、岩波仏教辞典によれば、煩悩とは「身心を乱し悩ませる汚れた心的活動の総称」と書かれています。
煩悩が、心の働きを表したものとするのならば、その心のあり方は、たとえ全く同じ心だったとしても、様々な表現ができるはずです。
心は実際に目で認識できるものではありませんが、目で見るものでさえ、私達は同じものでも、各々異なったな見え方、捉え方をすることができます。
煩悩の言葉のレパートリーの多さも、そんなものだと私は考えています。
初期の仏教経典では、煩悩に相当する様々な要素が挙げられますが、それらは明確に、カテゴライズされてはいませんでした。
これら煩悩の言葉というものは、やがて108の煩悩とも言われるように、時代を経るごとに細分化され、整理されていった経緯があります。
しかし、この記事では、きっちりとカテゴライズされた煩悩ではなく、もっと境界線が曖昧で漠然としながらも、様々な角度から表現されている煩悩というものに注目しました。
煩悩の異名
煩悩とは、「身心を乱し悩ませるもの」とされています。サンスクリット語では「kleśa」、パーリ語では「kilesa」といいます。
サンスクリット語やパーリ語は古代インド文字です。この言葉が漢訳され、今私達がお経として目にする漢字でお経となっています。
ちなみに英語では、「Kleshas」という単語が煩悩という意味で使われているようです。おそらく、サンスクリット語やパーリ語の発音からきているのでしょう。
さて、サンスクリット語では「kleśa」、パーリ語では「kilesa」という言葉は、煩悩のほかに、惑、塵労、染汚などとも訳されています。つまり、漢字に訳される時点で様々な翻訳の仕方があったわけです。
また、随眠(anusaya)のように、そもそも、パーリ語やサンスクリット語の時点から言葉は違うものの、ほぼ同義として扱われている言葉がたくさんありました。
ほかにも、三毒、結、漏、蓋、繋・縛などがあります。他にも多くあるようですが、以下のものはは少なくとも、仏教エピソードを書く際に、実際に私自身が目にしたものです。
漢訳された時に使い分けられたもの
惑
惑とは「惑わすもの、迷い、迷いのもとになるもの」とされています。
今も迷惑という言葉を使いますが、おそらくこの仏教用語が語源なのでしょう。
煩悩は、悩み・乱すものという面を表す一方で、惑は、迷いや惑わすものという面を表します。
悩みと迷い、乱すものと惑わすもの。「同じようなことじゃないの?」と言われればそれまでですが、微妙に表現が異なるわけです。
惑という言葉も、煩悩と同じく、サンスクリット語では「kleśa」、パーリ語では「kilesa」という言葉が漢訳されたものです。
元は同じだった言葉が、漢字にされる際に、こうして使い分けされたというわけです。
塵労
塵労という言葉も、元を辿れば、サンスクリット語では「kleśa」、パーリ語では「kilesa」という言葉と関係のある言葉です。
労するという文字から想像ができますが、塵労とは、「心の疲れ」を指すものです。
また、塵という文字を訓読みすると、塵です。塵や埃をイメージすると理解が進みます。
塵や埃はとても小さくて細かいものです。小さすぎて一つ一つはあまり気にはなりませんが、知らず知らずのうちにたまっていき、気が付いたら汚れています。
この汚れは、掃除さえすれば、綺麗になります。疲れもリフレッシュすれば、元気になりますね。
ただし、綺麗になったからといっても、放置していれば、また汚れてしまいます。やはり定期的に、掃除が必要です。
塵労という言葉は、そんな煩悩のあり方の一つを表した言葉とも言えるでしょう。
染汚
染汚と禅宗では呼びますが、仏教全般では染汚と読むのが一般的だそうです。
こちらも、元を辿れば、サンスクリット語では「kleśa」、パーリ語では「kilesa」という言葉と関係のある言葉です。
前述の塵労の様に、汚れや染まるといったことからイメージすると理解が進みます。
例えば衣服が汚れていく。どんどん汚い色へと染まっていく。私はそんな風にイメージします。
これも洗えば、また綺麗になりますが、放置すれば汚れ、悪臭を放ちます。
塵労にも言えることですが、気になりすぎても良くありませんよね。
例えば、無闇やたらに洗いすぎても、衣服にはよくありません。完璧なんてないってことですね。興味深いです。
ここで考察
さて、ここに煩悩を含めると、計四つ。元は同じ言葉でも、四つの異なった表現がされています。
煩悩や惑というのは、悩みや迷いを意味することから、どちらかと言えば、自ら生じるもの、自らの内から湧いてくるものという印象が私にはあります。
悩み、迷うのは自分自身だからです。
一方で、塵労や染汚は、それこそ、自分の外側からやってくるという印象が強いように感じます。
元々、綺麗だった所が時間の経過とともに、少しずつ汚れがたまっていく。この汚れは、例えば埃などの汚れは、自分の外から来たものです。
もちろん、これらは私一個人の印象の問題なので、簡単に反論できます。
例えば、自分自身からも汚れは生まれす。例えば垢が生じます。また、悩みや迷いの原因が自分の外がもとになることだってあるでしょう。
煩悩が、自分の内から生じるものなのか、はたまた、自分の外から生じるものなのかは、私にはわかりません。
ただ、煩悩も心だとすると、その質問は、心が自分の内から生じるものなのか、はたまた、自分の外から生じるものなのかという質問となります。
心となると、「自分から生じるよ」と言いたくなってしまいますが、実際の所、どうなのでしょうか。
心、精神や感情や思考といったもの。例えば自分の思考や考えは自分から生まれたもの。そう言い切っていいのでしょうか。
自分の考えは確かに自分から生まれてきたものですが、同時に、自分は、様々な他のものから影響を与えられています。
例えば、周りの環境によって、自分は刺激を受け、そこから情報を仕入れています。その集めた情報を基に、自分の考えが構築されていきます。
自分が、自分で物事を考え、構築していくその土台は、自分の周りから集まったものです。外から教わったものです。
自分の考えは、自分の力だけで作り出されるものではありません。
自分の内や外、自己と他者。確かにその違いはありますが、実際その境界線は曖昧なものです。
心や煩悩も同じく、いろいろな言葉があり、表現がありますが、きっちりと分けられるものではありません。
元は曖昧なもの、決して分けられないものです。しかし、それらの境界線を引いて、分けて、分析、整理することで、理解を助けてくれる場合があります。
しかし、それをあまりにも分けて考えすぎると、本来のものとは非常にかけ離れたものとなってしまいます。
理解したいから分析し、分けたがり、分けるとかえって複雑になって、余計わからなくなってしまう。そんな葛藤が生まれてきます。
煩悩の異名がたくさんあるというのは、仏教に携わってきた人々が、そんな葛藤をしてきたという表れなのではないでしょうか。
煩悩の同義語
さて、それでは話を戻すとして、以下、煩悩の同義語についてまとめます。
ここまでは、元を辿れば、サンスクリット語では「kleśa」、パーリ語では「kilesa」となる言葉を挙げましたが、古代インドの文字の時点でも、煩悩とほぼ同義として扱われている言葉がたくさんありました。
随眠
ずいめん、または、ずいみん、と読みます。サンスクリット語で「anuśaya」で、広い意味では、煩悩を表す言葉です。
字面から睡眠に関する事かと誤解しそうですが、そのような意味合いではありません。
習慣化され、潜在化している煩悩のあり方、心の中に随い眠り横たわっている煩悩のあり方を指します。
例えば、自身の性格や癖と言えばわかりやすいでしょうか。
普段は自分の内に鳴りを潜めていますし、直接問題があるわけではありません。しかし、何か機会があるごとに、それをきっかけに問題が表面化してしまう。
このような意味が、随眠いう言葉にあります。
結使
随眠の語源であるサンスクリット語「anuśaya」は、結使と漢訳されることもあります。
また、それぞれ、「結」と「使」で使いわけられる場合もあります。
結
岩波仏教辞典によれば、結とは、「不善の心理状態が心を拘束し、結びつける様子から表現された語」とあります。
そこから私がイメージするのは、縫い物をしている際の糸です。
例えば、縫い物をしている時、糸が絡まって、いつの間にか固結びになり、解けなくなってしまった。あの状態が頭に思い浮かびます。
それは、思い込みなどをきっかけに自分の考えに凝り固まり、頑固になってしまう。そんな様子を彷彿とさせます。
そのように、固結びになって、解けなくなってしまった状態が「結」というわけです。
サンスクリット語に「saṃyojana」という言葉があり、これも「結」と漢訳されます。
使
一方、「使」という言葉は、随眠と同じ「anuśaya」から、漢訳されます。
煩悩が、いつでもどこでも私達に潜み、つき随っているという「随眠」の意味と、煩悩が私達を固く結びつけ束縛しているという「結」の意味を合わせたような意味があります。
また「我使」という言葉として用いられているのを目にします。
これは、どこまでいっても「私、私、私……」と私の事ばかり、そうやって私自身に私が束縛されている状態を表しています。
繋縛・縛
繋縛。心が煩悩に繋がれ、拘束されている様子を表す語。
また、縛は、善くない精神状態が、人間の心を縛り付け拘束する様子から表現された語です。サンスクリット語で「bandahana」と言います。
上記の結使と似たような意味ですが、こちらは、縄のイメージが思い浮かびます。
縄に繋がれ、あるいは、縄に縛られ、身動きがとれなくなってしまう。そんな煩悩のあり方を表す言葉です。
後述するの三毒(貪・瞋・癡)を配して、三縛という事もあります。
戒禁取・戒取
戒禁取または、戒取。ある見解に囚われてしまうことを言います。
正論やルール、マナーなど、何にでもいえることですが、一つの見解にとらわれ、縛られて、結果として誤った道へと向かってしまうことがあります。
私にとっては、上記の話も合わせて、縛とリンクする言葉です。
漏
漏。サンスクリット語で「āsrava」。様々な心の汚れを表す言葉で、広い意味で煩悩と同じ意味です。
自分から汚れ・煩悩が漏れ出る様子を表した言葉です。
そのような汚れがある状態として「有漏(sāsrava)」という言葉として用いられ、その反対語として「無漏」があります。
前述した塵労や染汚が、塵や埃など自分の外からする汚れだとすれば、漏は、自分から生じる汚れ、垢のような煩悩のあり方を表していると理解することができます。
蓋・五蓋
蓋。サンスクリット語で「nīvaraṇa」。
訓読みすると、蓋と読めることから、自分に蓋をするイメージが思い浮かびます。
善くない精神状態によって、心が覆われてしまい、自分に蓋をして閉ざしてしまう。そんな煩悩のあり方が表現された語です。
五蓋として説かれる事が多く、欲貪蓋、瞋恚蓋、惛眠蓋、悼悔蓋、疑蓋の五つが説かれます。
それぞれ、執着、怒り、憂鬱、高ぶりと後悔、疑いという意味で、それらによって心が覆われて、閉ざされてしまう様子を表します。
ちなみに、執着は、現代語の執着と同じ意味もあるが、仏教では様々な意味で使われます。
今回の場合の執着は、好みのものに対してひっついて離れられない、つまり依存のような意味として捉えることができます。
三毒
根本的な三つの煩悩を毒に喩えたものです。
ここまで、多くの煩悩の異名、様々な煩悩の要素を取りあげてきましたが、それらをわかりやすく整理したものです。
私も仏教を学ぶ上で、煩悩と言えば、まず、この三つの根本煩悩について教わりました。
三つとは、すなわち、愚癡、貪欲、瞋恚の三つです。それぞれ貪・瞋・癡と略されることがあります。
愚癡とは、愚かさ・無知を、貪欲とは、欲望を、瞋恚とは、怒りを表します。
とても簡単にカテゴライズされていて、分かりやすいですが、丁寧に見てみるととても話が長くなります。
三つそれぞれに関する仏教エピソードを訳していますので、そちらを参考にしてください。
- 三毒について
- 愚癡について
- 貪欲について
- 瞋恚について
また、それぞれ、法話会にして詳しくお話しています。
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