本記事は「雑阿含経巻第17-471」の内容を基に作りました。
風のたとえ
今日は風が強いね
この時期、風が強いとなぜか鼻が出るんだよね。異常に……
花粉症なんじゃない?
少し暑くなってきた今、私にとっては、この風は心地いいかな。
風が起ち、色々な風が、様々な方向から吹いてくる。
そうですね
私たちの身に受ける「受」の風もまた、同じようなものですね。
それはどういう意味ですか?
黄砂のように砂や塵を伴って起こる風もあれば、そのような塵を含まない風もある。そこら辺一体、広範囲に吹く風もあれば、ここだけピンポイントに吹く風もある。
はるか上空で吹く風、地上や地下で吹く風、弱く薄い風、強く分厚い風、竜巻や台風、そこから起こる風もありますね。
はい。実にいろいろな風がありますね。
色々な風をこの身に受ける。ある者にとって、それは苦の風となる。またある者にとっては、それは楽の風となる。またある者にとっては、苦でもなく・楽でもない風となる。
確かにそうでうすね。先ほど「風強いね~」と、皆ではなしていましたが、私は話を合わせるだけで、「別に~」って感じでしたから(笑)
あまり関心がなかったのね(笑)
私にとっては、その風は、心に楽と感じさせるものだったと。
私には逆に心に苦と感じさせるのものだったということかな。
私には、身にも心にも苦と感じさせるものだったようですね(笑)
そのように種々の「受」の風が起つ。
「楽(+の反応)」「苦(ーの反応)」のように関心を持つか、或いは「不苦不楽(+-の反応無し)」で無関心であるか。
これらの反応が「受」ということですね。
ふむ。風で言えば、追い風(+)、向かい風(-)みたいなものですかね。
それに無頓着な風もね(笑)
これらの風、諸々の「受」をよく観察し、知ることは大事なことです。
なるほど。風も教えてくれることがたくさんあるのですね。
ありがとうございます。
―お釈迦さんは退席しました―
前回は「火のたとえ」だったけど、今回は「風のたとえ」だったね。
その前は「四諦について話しなさい」って2,3、4、5回と、あれだけ言ってたのに、お釈迦さんは色々な話をするよね(笑)
だな(笑)
いやいや、そういう事じゃないんだよ。
そうだよ。それに今回の話も前回の話も、私には四諦の話にも聞こえたよ。
へ? どういうこと?
四諦については以前にも話していたけど、苦諦、集諦、滅諦、道諦。以上の四つで四諦ってことはいいよね?
ああ、そう聞いたね。
で、今回、風の話は、苦諦とも関連していると思うんだよね。
この世の中には色々な風が起こるように、様々な「苦」の風が起きている。
そうそう。苦の風が吹いているという事実がある。それが苦しみがあるという事実「苦諦」という意味なのかなって。
風の発生を止めることは誰にもできないし、風を無くすことなんてできないよね。
まぁ、嫌な風は止めたいと思うことはあっても、実際には止められるものじゃないわな。
それに、嫌な風だけじゃなくて、善い風もあるもんね。さっき言ってた、追い風、向かい風のように。
無頓着な風もな(笑)
うん。風を無くすことはできないように、苦を無くすことはできない。風は生じるものだから。苦は生じるものだから。
それが「苦諦」、苦があるってことか。
だから、楽もあるってことも言えるわけね。
追い風、向かい風、色々な風を ”受” けて、私たちは種々の ”受” の反応を起こすというわけ。
ふむ。そう考えると、四諦の話ともつながっているというわけか。
さらに言えば、前回の「火のたとえ」も用いると、「受」の反応を火に見立てると面白いかなって思う。
色々な風を受けて、私達(火)が反応する。炎が揺らめいて、ある時は消えそうになったり、ある時は煽られて、勢いが強くなったり。
そうそう。煩悩の炎っていうけど、例えば、欲望だって、無くなったら生きていけないわけじゃない。食欲とか、睡眠欲とか、それも欲望でしょう。
だな。食べたい、飲みたい、眠りたい。これらは全部欲望といわれるが、さっきの風みたいに、全部が全部、悪いように働いているわけじゃないもんな。
食べる、飲む、寝るは、生きていく上で欠かせないわけだし、知りたい、善くしたいなんて向上心と呼ばれるものも、ある種の欲望でしょ。
私は、遊びたい、怠けたいとかの欲望が強いかもしれんが。
それだって、いつも気が張っていては、無理がきてしまうし、怠けるまではいかなくても、休んだり遊んだり、リラックス(気を緩める)ことは、大事なことでしょう。
そうだね。もちろん、休みすぎて、怠けちゃいけないけど。
そういや、これも、アヌルッダさんに、お釈迦さんが言ってたな。
ふむ。とりあえず、私達には、煩悩があるけど、それは、「火」みたいなものということだね。
そうそう。そして、その「煩悩の火・炎がある」ってことが「集諦」ということだと思う。
つまり、その煩悩も無くならないってことか。
じゃぁ、煩悩があってもいいんだね。
煩悩があるというのは事実だけど、「煩悩があってもいいんだね(そのままでいいんだね)」って話ではないよ。
というと?
私達の煩悩の炎は、様々な苦の風によって、反応する。時には、風に煽られて大きくなる。時には、風に吹かれて、消えそうになる。
例えば、消えたらどうなる?
煩悩がなくなる。
食べたい、飲みたい、知りたい、とか、そんな想いも無くなるわけだよ。
生きたいという意欲も。
ああ、そういうことか。
よく、命を喩える時、ろうそくの炎に例えられるイメージがあるけど、それと似たようなものかな。
ろうそくの炎が消えた瞬間、命の灯も消える。
そう。弱弱しくなる、消えてしまいそうになる。それも困る。
反対に、風に煽られて大きくなるとどうなる?
炎が大きくなったら、怖いよね。場合によっては、火事になる。
自分も燃えるし、他の人をも巻き込んでしまうね。
「いやぁ、今日は疲れたから、何か憂さ晴らししたいな」って気分か。
「酒飲むか!」「豪遊するか!」「あれもするか、これもするか!」ってどんどんエスカレートして、最終的には……。
そうか。欲望ってどんどんエスカレートしていくし、炎が大きくなれば、なるほど、周りを巻き込むケースが増えていってしまうね。
そう。つまり、煩悩の炎は、消えても困るけど、大きくなっても困るわけよ。
じゃぁどうするか?
例えば、ろうそくの炎が消えそうな時は、手をかざすね。
周りをぐるっと囲めば、いくら炎が大きくても、延焼は防げるんじゃねえ?
炎が大きくなったら、その分囲むの大変でしょう。大きくなる前に囲んだ方がいいでしょ。
ああ、暖炉やストーブのイメージか。
そうだね。そうして、通風孔があれば、炎が小さければ、風を多く入れて、炎を強くできるし、逆に炎が多きれば、風を少なくして、炎を弱めることもできる。
そうやって「囲む」ことが「滅諦」ってことだと思う。
「滅諦」って、滅する。つまり無くすことじゃないの?
滅って「無くす」というよりは、むしろ「変化」って意味で使うことが多いかな。
それに、四諦に関して言えば、「滅は堤防(nirodha)」という意味で使うから、囲むとか、せき止めるってイメージの方がいいと思うんだよね。
おお。つまり、苦諦は風のイメージ、集諦は火・炎のイメージ、滅諦は壁のイメージってことか。
そうそう、壁や堤防などで囲うことによって、調節できる環境が調うってことかな。
なるほどな。だから、「煩悩があってもいいんだね(そのままでいいんだね)って話ではない」ってことなのか。
で、最後の道諦というのが、その壁や堤防で囲う、あるいは炎を調節するといった、その実践・道というわけ。
全部、自然のイメージで考えると面白いね。
以上、色んな話をしてきたけど、全部、四諦の話とつながっているんだよね。
なるほどな。別々の話でも、どこか通じているところがあるということか。
逆に通じている所がしっかりしていないと、全部の話がバラバラになってしまって、一つ一つの理解が、浅くなってしまいそうだね。
「四諦について話しなさい」っていうのは、「四諦の教えだけ考えておけばいい、余計なことは考えるな」ってことではないってことか。
それを余計なことにするか、はたまた、補い助け合うものにするか。
私達は、同じものに向き合って、同じように知っているのに、こういう違いが出てくるんだね……。
補足
- 出典:雑阿含経巻第17-471
(四七一)如是我聞。一時佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時世尊告諸比丘。譬如空中狂風卒起從四方來。有塵土風。無塵土風。毘濕波風。鞞嵐婆風薄風。厚風乃至風輪起風。身中受風。亦復如是。種種受起樂受苦受不苦不樂受。樂身受苦身受不苦不樂身受。樂心受苦心受不苦不樂心受。樂食受苦食受不苦不樂食受。樂無食苦無食不苦不樂無食受。樂貪受苦貪受不苦不樂貪受。樂出要受。苦出要受。不樂不苦出要受。爾時世尊。即説偈言 譬如虚空中 種種狂風起 東西南北風 四維亦如是 有塵及無塵 乃至風輪起 如是此身中 諸受起亦然 若樂若苦受 及不苦不樂 有食與無食 貪著不貪著 比丘勤方便 正智不傾動 於此一切受 黠慧能了知 了知諸受故 現法盡諸漏 身死不墮數 永處般涅槃佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻120頁b段15行-c段7行)
国訳一切経阿含部2巻65頁
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