風のたとえ|仏教の基礎「四諦」の教えについて

ちしょう
ちしょう

本記事は「雑阿含経巻第17-471」の内容を基に作りました。

風のたとえ

弟子A
弟子A

今日は風が強いね

弟子B
弟子B

この時期、風が強いとなぜか鼻が出るんだよね。異常に……

弟子1
弟子1

花粉症なんじゃない?

弟子2
弟子2

少し暑くなってきた今、私にとっては、この風は心地いいかな。

お釈迦さん
お釈迦さん

風がち、色々な風が、様々な方向から吹いてくる。

弟子1
弟子1

そうですね

お釈迦さん
お釈迦さん

私たちの身に受ける「受」の風もまた、同じようなものですね。

弟子A
弟子A

それはどういう意味ですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

黄砂のように砂や塵を伴って起こる風もあれば、そのような塵を含まない風もある。そこら辺一体、広範囲に吹く風もあれば、ここだけピンポイントに吹く風もある。

 

はるか上空で吹く風、地上や地下で吹く風、弱く薄い風、強く分厚い風、竜巻や台風、そこから起こる風もありますね。

弟子B
弟子B

はい。実にいろいろな風がありますね。

お釈迦さん
お釈迦さん

色々な風をこの身に受ける。ある者にとって、それは苦の風となる。またある者にとっては、それは楽の風となる。またある者にとっては、苦でもなく・楽でもない風となる。

弟子1
弟子1

確かにそうでうすね。先ほど「風強いね~」と、皆ではなしていましたが、私は話を合わせるだけで、「別に~」って感じでしたから(笑)

弟子2
弟子2

あまり関心がなかったのね(笑)

私にとっては、その風は、心に楽と感じさせるものだったと。

弟子A
弟子A

私には逆に心に苦と感じさせるのものだったということかな。

弟子B
弟子B

私には、身にも心にも苦と感じさせるものだったようですね(笑)

お釈迦さん
お釈迦さん

そのように種々の「受」の風がつ。

弟子2
弟子2

「楽(プラスの反応)」「苦(マイナスの反応)」のように関心を持つか、或いは「不苦不楽(+-の反応無し)」で無関心であるか。

これらの反応が「受」ということですね。

弟子1
弟子1

ふむ。風で言えば、追い風(+)、向かい風(-)みたいなものですかね。

弟子A
弟子A

それに無頓着な風もね(笑)

お釈迦さん
お釈迦さん

これらの風、諸々の「受」をよく観察し、知ることは大事なことです。

弟子2
弟子2

なるほど。風も教えてくれることがたくさんあるのですね。

弟子1
弟子1

ありがとうございます。

―お釈迦さんは退席しました―
弟子1
弟子1

前回は「火のたとえ」だったけど、今回は「風のたとえ」だったね。

弟子A
弟子A

その前は「四諦について話しなさい」って345回と、あれだけ言ってたのに、お釈迦さんは色々な話をするよね(笑)

弟子B
弟子B

だな(笑)

弟子1
弟子1

いやいや、そういう事じゃないんだよ。

弟子2
弟子2

そうだよ。それに今回の話も前回の話も、私には四諦の話にも聞こえたよ。

弟子A
弟子A

へ? どういうこと?

弟子2
弟子2

四諦については以前にも話していたけど、苦諦、集諦、滅諦、道諦。以上の四つで四諦ってことはいいよね?

弟子A
弟子A

ああ、そう聞いたね。

弟子2
弟子2

で、今回、風の話は、苦諦とも関連していると思うんだよね。

弟子1
弟子1

この世の中には色々な風が起こるように、様々な「苦」の風が起きている。

弟子2
弟子2

そうそう。苦の風が吹いているという事実がある。それが苦しみがあるという事実「苦諦」という意味なのかなって。

 

風の発生を止めることは誰にもできないし、風を無くすことなんてできないよね。

弟子B
弟子B

まぁ、嫌な風は止めたいと思うことはあっても、実際には止められるものじゃないわな。

弟子1
弟子1

それに、嫌な風だけじゃなくて、善い風もあるもんね。さっき言ってた、追い風、向かい風のように。

弟子A
弟子A

無頓着な風もな(笑)

弟子2
弟子2

うん。風を無くすことはできないように、苦を無くすことはできない。風は生じるものだから。苦は生じるものだから。

弟子1
弟子1

それが「苦諦」、苦があるってことか。

弟子A
弟子A

だから、楽もあるってことも言えるわけね。

弟子2
弟子2

追い風、向かい風、色々な風を ”受” けて、私たちは種々の ”受” の反応を起こすというわけ。

弟子B
弟子B

ふむ。そう考えると、四諦の話ともつながっているというわけか。

弟子2
弟子2

さらに言えば、前回の「火のたとえ」も用いると、「受」の反応を火に見立てると面白いかなって思う。

弟子1
弟子1

色々な風を受けて、私達(火)が反応する。炎が揺らめいて、ある時は消えそうになったり、ある時は煽られて、勢いが強くなったり。

弟子2
弟子2

そうそう。煩悩の炎っていうけど、例えば、欲望だって、無くなったら生きていけないわけじゃない。食欲とか、睡眠欲とか、それも欲望でしょう。

弟子A
弟子A

だな。食べたい、飲みたい、眠りたい。これらは全部欲望といわれるが、さっきの風みたいに、全部が全部、悪いように働いているわけじゃないもんな。

弟子2
弟子2

食べる、飲む、寝るは、生きていく上で欠かせないわけだし、知りたい、善くしたいなんて向上心と呼ばれるものも、ある種の欲望でしょ。

弟子B
弟子B

私は、遊びたい、怠けたいとかの欲望が強いかもしれんが。

弟子1
弟子1

それだって、いつも気が張っていては、無理がきてしまうし、怠けるまではいかなくても、休んだり遊んだり、リラックス(気を緩める)ことは、大事なことでしょう。

弟子1
弟子1

ふむ。とりあえず、私達には、煩悩があるけど、それは、「火」みたいなものということだね。

弟子2
弟子2

そうそう。そして、その「煩悩の火・炎がある」ってことが「集諦」ということだと思う。

弟子B
弟子B

つまり、その煩悩も無くならないってことか。

弟子A
弟子A

じゃぁ、煩悩があってもいいんだね。

弟子2
弟子2

煩悩があるというのは事実だけど、「煩悩があってもいいんだね(そのままでいいんだね)」って話ではないよ。

弟子A
弟子A

というと?

弟子2
弟子2

私達の煩悩の炎は、様々な苦の風によって、反応する。時には、風に煽られて大きくなる。時には、風に吹かれて、消えそうになる。

例えば、消えたらどうなる?

弟子B
弟子B

煩悩がなくなる。

弟子2
弟子2

食べたい、飲みたい、知りたい、とか、そんな想いも無くなるわけだよ。

 

生きたいという意欲も。

弟子A
弟子A

ああ、そういうことか。

弟子1
弟子1

よく、命を喩える時、ろうそくの炎に例えられるイメージがあるけど、それと似たようなものかな。

ろうそくの炎が消えた瞬間、命の灯も消える。

弟子2
弟子2

そう。弱弱しくなる、消えてしまいそうになる。それも困る。

反対に、風に煽られて大きくなるとどうなる?

弟子1
弟子1

炎が大きくなったら、怖いよね。場合によっては、火事になる。

自分も燃えるし、他の人をも巻き込んでしまうね。

弟子A
弟子A

「いやぁ、今日は疲れたから、何か憂さ晴らししたいな」って気分か。

弟子B
弟子B

「酒飲むか!」「豪遊するか!」「あれもするか、これもするか!」ってどんどんエスカレートして、最終的には……。

弟子1
弟子1

そうか。欲望ってどんどんエスカレートしていくし、炎が大きくなれば、なるほど、周りを巻き込むケースが増えていってしまうね。

弟子2
弟子2

そう。つまり、煩悩の炎は、消えても困るけど、大きくなっても困るわけよ。

じゃぁどうするか?

弟子1
弟子1

例えば、ろうそくの炎が消えそうな時は、手をかざすね。

弟子A
弟子A

周りをぐるっと囲めば、いくら炎が大きくても、延焼は防げるんじゃねえ?

弟子B
弟子B

炎が大きくなったら、その分囲むの大変でしょう。大きくなる前に囲んだ方がいいでしょ。

弟子1
弟子1

ああ、暖炉やストーブのイメージか。

弟子2
弟子2

そうだね。そうして、通風孔があれば、炎が小さければ、風を多く入れて、炎を強くできるし、逆に炎が多きれば、風を少なくして、炎を弱めることもできる。

 

そうやって「囲む」ことが「滅諦」ってことだと思う。

弟子A
弟子A

「滅諦」って、滅する。つまり無くすことじゃないの?

弟子2
弟子2

滅って「無くす」というよりは、むしろ「変化」って意味で使うことが多いかな。

弟子2
弟子2

それに、四諦に関して言えば、「滅は堤防(nirodha)」という意味で使うから、囲むとか、せき止めるってイメージの方がいいと思うんだよね。

弟子1
弟子1

おお。つまり、苦諦は風のイメージ、集諦は火・炎のイメージ、滅諦は壁のイメージってことか。

弟子2
弟子2

そうそう、壁や堤防などで囲うことによって、調節できる環境が調うってことかな。

弟子B
弟子B

なるほどな。だから、「煩悩があってもいいんだね(そのままでいいんだね)って話ではない」ってことなのか。

弟子2
弟子2

で、最後の道諦というのが、その壁や堤防で囲う、あるいは炎を調節するといった、その実践・道というわけ。

弟子1
弟子1

全部、自然のイメージで考えると面白いね。

弟子2
弟子2

以上、色んな話をしてきたけど、全部、四諦の話とつながっているんだよね。

弟子A
弟子A

なるほどな。別々の話でも、どこか通じているところがあるということか。

弟子1
弟子1

逆に通じている所がしっかりしていないと、全部の話がバラバラになってしまって、一つ一つの理解が、浅くなってしまいそうだね。

弟子B
弟子B

「四諦について話しなさい」っていうのは、「四諦の教えだけ考えておけばいい、余計なことは考えるな」ってことではないってことか。

弟子1
弟子1

それを余計なことにするか、はたまた、補い助け合うものにするか。

 

私達は、同じものに向き合って、同じように知っているのに、こういう違いが出てくるんだね……。


補足

  • 出典:雑阿含経巻第17-471
(四七一)如是我聞。一時佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時世尊告諸比丘。譬如空中狂風卒起從四方來。有塵土風。無塵土風。毘濕波風。鞞嵐婆風薄風。厚風乃至風輪起風。身中受風。亦復如是。種種受起樂受苦受不苦不樂受。樂身受苦身受不苦不樂身受。樂心受苦心受不苦不樂心受。樂食受苦食受不苦不樂食受。樂無食苦無食不苦不樂無食受。樂貪受苦貪受不苦不樂貪受。樂出要受。苦出要受。不樂不苦出要受。爾時世尊。即説偈言 譬如虚空中 種種狂風起 東西南北風 四維亦如是 有塵及無塵 乃至風輪起 如是此身中 諸受起亦然 若樂若苦受 及不苦不樂 有食與無食 貪著不貪著 比丘勤方便 正智不傾動 於此一切受 黠慧能了知 了知諸受故 現法盡諸漏 身死不墮數 永處般涅槃佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻120頁b段15行-c段7行)

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースより

国訳一切経阿含部2巻65頁

コメント

タイトルとURLをコピーしました