月をさす指。これは、私がお経や仏教書を読む時に特に注意している所です。
お経の成り立ちやお釈迦さんの説法が対機説法ということから、お経や仏教書を読むと時は、一つの事柄に捉われず、できる限り、多角的に見る努力をしていました。
そういう取り組みは、大学の頃に宗教学を学んだ恩師の影響も大きいと思います。
それまで漠然とやっていた取り組み方ですが、ある時、一冊の本の中で、その姿勢を端的に表している言葉に出会いました。
『完全なる目覚めの経典』(円覚経)には、「仏陀の説いたことのすべては、月をさす指であると理解しなければならない」(指月の譬え)と書かれています。
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お経はお釈迦さんの説法を弟子がまとめたもの。つまり、「月をさす指」という理解は、お経に接する際にも共通することだと、私自身は捉えました。
月をさす指の意味
さて、その「月をさす指」というのは、どういう意味なのでしょうか。
例えば、私が「あっちを観てください!」と指をさしたとします。
その時、その指に注目するでしょうか? それとも、指の指し示す方を見ようとするでしょうか?
指さした本人としては、もちろん、指をさした方を観てほしい……。その指自体は、そちらの方を観てもらうために用いた手段の一つにすぎません。
ここでいうなら、月を観てほしいわけです。指を観てほしいわけではありません。
つまり「月=本当に伝えたい事」、「指=伝えるための手段」というわけです。
別の言い方をすれば、伝えたかった事と伝わった事の違いでしょうか。
これは、お経にも同じことが言えます。いえ、それだけではなく、言葉や文字にも同じことが言えます。
痴者が、月を指すを見て、その指を観て月を観ざるがごとく、名字に計著する者は、我の真実を見ず。
<出典>楞伽経
私達は、何かを伝えたい時に、言葉や文字にします。この言葉や文字が指に該当します。
言葉や文字に囚われていると、言葉遊び、文字遊びになってしまいます。言葉や文字を解釈することに夢中になり、言葉や文字ばかり、つまり指ばかりに注目してしまいます。
そして、指の指し示す方向にあるものをみることはなく、実際に月の方に顔を向けることはありません。
指、言葉、文字に囚われず、その先に示すものを観てほしい。これがお経の中でも示されているのです。(仏教エピソード「筏の如く」も参考になると思います)
お経や仏教書は、それこそ、様々な時代、場所、人の視点から書かれています。今でもこうして書かれています。
たとえ同じことを語っていたとしても、その言葉や表現が同じということはありません。むしろ真逆になるということだってあります。
ですから、どれか一つの事柄(指)だけに囚われてしまうと、とたんに仏教(月)が見えなくなってしまいます。
これは、お経や仏教書を読むだけに限らず、日常の生活の中にも通じることだと思います。そういえば、それに通じる話もお経のなかにありますね。例えば「キンスカの木」とか……。
とりあえず、今回は「月をさす指」、私がお経や仏教書を読む時に特に注意している言葉をご紹介させて頂きました。
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