坐禅中、眠くなった。雑念が出る。どうしたらいい?

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問)坐禅中、眠くなったのですが、どうしたらいいんでしょうか?

答)眠くなるのは、人間、自然な事です。

問)坐禅中、雑念が出てしまうのですが、どうしたらいいでしょうか?

答)何かを思い、感じるというのも、人間、自然な事です。その思いに、雑も何もありません。

これら二つの問いは、坐禅会にてよく受ける質問です。今回はそれら質問についてまとめてみました。

「眠」も「思」も坐禅にはあるのです。

坐禅は、眠くなるのは、あってはならない事と思い込んでいないでしょうか。

坐禅は、何かを思い、感じてはいけないと思っていないでしょうか。

そんなことはありません。それらを感じることは、自然な事です。

眠ると寝る

坐禅中、何も考えずに坐っていると、当然眠くなることもあるかと思います。

その様子を図で表すと、下の図の青い左矢印(←)です。

まぶたが垂れてくる様子を示しているのが、「睡」という漢字らしいですね。

ただし、私は坐禅中に、横になって寝る人を、みたことがありません。

もし、その様な人がいたら、心配になり、声を掛けにいくでしょう。

眠気を感じ、ウトウトしてくれば、大抵の人が寝る前に、自分の眠気に気がつき、そして、そこから仕切り直して坐っています。

そうして、自然と元の坐禅の姿に戻ります。そういう意味では坐禅の姿勢がしっかりと助けてくれています。

その様子を表すと、下の図の緑の右矢印(→)です。

それでも、眠くて眠くて仕方がない。何度も何度も眠ってしまいそうになる。ウトウトし出して、前の壁に突っ込んでしまうようなことが起ってしまうのは、きっと寝不足なんだと私は思います。

その事は以前、記事に書かせて頂きました。

思う、考える、考え込む

また、人間、必ず生きている限り、思いは浮かぶものです。

意識が休んでいる間は眠り、意識が働いている間は起きる。

人間は考える葦とも言われますが、思考することは人間、自然なことです。

図で表すと、下図の青い右矢印(→)ですね。

ただし、坐禅中に「考える人」の彫刻のように、考え込むことはありません。

もし、そこまでして考え込むと、必ず姿勢に表れます。頭をかいたり、眉間に指を押し当てたり、ソワソワしたり、何らかの行動に表れます。

もしそんな人がいたら、私は、心配になり、声を掛けにいくでしょう。

大抵の人が、上記のようなことになる前に、自分の姿勢に気がつき、仕切り直して坐っています。

そうして、自然と元の坐禅の姿に戻ります。この意味でも、坐禅の姿勢がしっかりと助けてくれています。

その様子を表すと、下の図でいう所の緑の左矢印(←)です。

直立不動。全く動かない。静かに固まる。

そうやって、青の矢印の動きを封じてこめようとすると、緑の矢印の動きを感じる機会も潰してしまします。

そうではなくて、この矢印の動きに気づくのも坐禅の大事なことなのです。

単に静かに固まるわけではなく、柔らかく動きを感じる。それも坐禅の醍醐味なのでしょう。

動きのある坐禅

坐禅は直立不動、眠くなってはいけない、雑念を抱いてはいけない。私自身も初めは、坐禅に対してそのようなイメージを持っていました。

しかし、それは、矢印の動きが全くない、ガチガチに固まった坐りです。

あたかも真ん中にハンドルロックされた車のようです。

それは仏教の基本的な教えである「中道」に多い誤解そのものです。(中道については詳しくは法話にて)

私はよく中道の話を「自己の運転」に例えてお話します。

車、あるいは自転車やバイクでもなんでも構いませんが、よく中道というと、中の道と書いて、真ん中が正解であると誤解されます。

しかし、そうではありません。真ん中を行くのが正解だと思うのは、ハンドルを真ん中に固定しているようなものです。

ハンドルは左右に切れるからこそ、運転できるのであって、真ん中に固定してしまっては、運転すらできません。

たとえ、それで、真ん中を走れたとしても、ガチガチにハンドルを固めて運転するのは、辛いでしょう。

姿勢にしても、運転にしても、何にしても、無理に真ん中にしようと、ガチガチに固まるということは、常に力が入っているということです。

そんなに力を入れなくても、自然とバランスはとれるものです。左右に動きがありつつ自然にバランスがとれている時、そこには余計な力は必要ありません。

むしろ、余計な力を入れないほうが、必要な時に、力を込めることができます。私は運動をしている時に、そのように感じます。

その時、柔らかさが違います。力の入り具合が違います。本人の辛さはまるで違います。

例えば、自動車教習所で、オートバイに乗った時のことですが、一本橋という実技があります。

確か幅30cm、長さ15M、平均台みたいな段差をバイクで渡る実技です。

最初に一本橋をした時は、ハンドルをガチっと動かさずに固定し渡ろうとしましたが、うまくいきませんでした。

結局、実技は次回もやり直しさせられました。その時受けたアドバイスが、ハンドルを交互に動かし続ける事でした。

経験のない方は、動かず、ハンドルをガチっと固定した方が、まっすぐ進めるじゃないかと思うかもしれません。

しかし、それでは逆に不安定なのです。というか、力みすぎます。身体がガチガチになってしまいます。

実際は交互に細かく動かした方が、バランスよく安定します。

坐るのも、ガチっと固まって、まさしく直立不動の姿だとしても、その中身は、力づくで、相当辛いはずです。常時、動かないようにガチガチに固まるのは、大変、力のいることです。

動きがあるなかで、しっかりとバランスがとれた自然な坐禅は、そんな力を入れる必要がありません。

外見は同じでも、中身は全く違うものとなります。

まぁ、見た目は変わらないので、それこそ、見様見真似で坐禅をすると、ガチガチに固まる坐禅のイメージに凝り固まってしまうのかもしれませんね。

言ってみれば、この思い込みも固まりではあるわけです。

たとえ、静かに固まったようにしか見えなくとも、そこには柔らかく動きがあるのです。

過去話

正直にいうと、私は坐禅が嫌いでした。厳密にいうと、ガチガチに凝り固まる坐禅が坐禅だと思っていた時は、坐禅が嫌いでした。

そしてまた、上記の中道のように、仏教の教えと坐禅とが全く結びつかず、違和感を感じていました。

板橋禅師と問答する機会があった時、このように問いました。

「坐禅って中道だと思うんですよね」

そう質問をした背景には、当時私が坐禅だと思っていたものが、中道の誤解そのものだと感じていたからかもしれません。

そんな私に対して、板橋禅師の答えは「そだね」の一言でした。

ただ、そのたった一言が非常に印象的で、一番記憶に残っています。

また、坐禅に関して、藤田一照老師との出会いも大きなものでした。私にとって坐禅の恩師ともいえる方です。

上記の「眠」と「考」の図も、実は一照さんとの話からまとめさせてもらったものです。

直立不動。全く動きがない。そうやって、青の矢印の動きを封じてこめようとすると、緑の矢印の動きを感じる機会も潰してしまします。

そうではなくて、この矢印の動きに気づくのも坐禅の大事なことなのです。

坐禅というのは、単にガチガチに固まったものではなく、こうして動きのあるものなのです。

実際、姿勢もガチっと固まるだけより、柔らかい動きがあったほうが姿勢は安定します。

決して単に静かに固まるわけではなく、柔らかい動きを感じる。それも坐禅の醍醐味なのでしょう。

もし、ガチガチに固まっているだけだったなら、おそらく、このような話もまたなかったのではないでしょうかね……。

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