兵士と信者の言い争い|素晴らしい教えでも使い方を違えば本来の意味を失う

ちしょう
ちしょう

本記事は「雑阿含経巻第17-485」の内容を基に作りました。

ちしょう
ちしょう

投稿後に誤りを発見しました。詳細は登場人物を兵士と信者にした理由は補足にて。

兵士と信者の言い争い

兵士1
兵士1

お釈迦さんが説いていた「受」について、聞きたいことが有るのですが……

兵士1
兵士1

信者のあなたなら何か知っているのではありませんか?

兵士1
兵士1

受には、「楽(+)」「苦(-)」の二つがありましたよね。

信者1
信者1

それともう一つ「不苦不楽」の受を合わせて、三つがありますね。

兵士1
兵士1

「不苦不楽」というのは、「楽+」でも「苦-」でもないということでしょう。

兵士1
兵士1

何も感じない。何も受けない。それは言ってみれば「無の境地」じゃないですか。

 

だから、それはむしろ「受」ではなく、悟りの境地みたいなものじゃないですか?

信者1
信者1

いいえ。それは違います。「不苦不楽」とは無関心という意味です。

 

お釈迦さんは、「楽」「苦」「不苦不楽」の三つがあると説いていますよ。

兵士1
兵士1

仮に、無関心だったとしても、それは、関心がない、何も受けないってことだから、「受」ではないはずでしょう?

 

だから、二つですよ。

信者1
信者1

いいえ。三つです。

兵士1
兵士1

あなたじゃ話にならないですね。

信者1
信者1

あなたこそ、人に聞いといて何なんですか!?

お釈迦さんは確かに、三つと言っていました!

兵士1
兵士1

どうやら、お釈迦さんに直接聞いた方がいいようですね。

信者1
信者1

望む所です! どっちが正しいか、白黒つけるとしましょう。

兵士1・信者1は、お釈迦さんのグループに参加しました。
信者1
信者1

お会い頂き、ありがとうございます。

早速ですがお聞きしたいことがあります。

信者1
信者1

お釈迦さんは、受は三つあると説かれていますよね?

「楽」「苦」「不苦不楽」の三つだと。

お釈迦さん
お釈迦さん

まぁ、確かに、そんな話をしたことはありますね。

信者1
信者1

ほらほら。見てごらんなさい。

私の言った通りでしょう!?

兵士1
兵士1

いや、私は受は二つだと思うのですよ。

「不苦不楽」って「何も受けない」ってことでしょう?

信者1
信者1

だから、それも「受」なんですって……。受は三つです。

 

この人は、人に聞いておきながら、本当に頑固なんだから。

兵士1
兵士1

いや。二つでしょう。

お釈迦さん、「受」はいくつあるですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

「受は、幾つ?」と言われましても……。

 

ひとつの受と説くこともありすし、ふたつの受と説くこともあります。

信者1
信者1

え? みっつではないのですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

みっつの受と説くこともあれば、四、五、六……、十六…三十六…百八……と。

兵士1
兵士1

え? 桁が変わっていますよ?

お釈迦さん
お釈迦さん

というか、数えられないですね。だったら、無量数えきれないほどの受とも言えますね。

信者1
信者1

無量数えきれないほどあるってことですか!?

弟子1
弟子1

数えられないほどだけれども、数えることもできる。

弟子2
弟子2

興味深いですね。

信者1
信者1

とりえあず順番に教えてください。

 

私は「受」は、三つだと思っていました。

「楽」「苦」「不苦不楽」のだと。

信者1
信者1

ひとつの受とは、一体何ですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

「所有のある受は、皆すべて苦なり」

このように説けば、「受は一つ」ということですね。

弟子1
弟子1

全てのものは変わりゆく。所有しているものも当然、変化していく。

弟子2
弟子2

「手離したくない」「所有していたい」と手の内に収めているものも、いずれ壊れたり、劣化したりして、何らかの形で失ってしまうということですね。

弟子1
弟子1

手離したくないものを、失ってしまうのは、苦しいですよね。

弟子2
弟子2

所有した時は、嬉しいけど、それを失ったときは苦しい。

兵士1
兵士1

んー?

 

そう考えると「楽」「苦」の二つじゃないですか???

弟子2
弟子2

んー、この話は、数を問題にしているわけじゃないってことですよね。

弟子1
弟子1

「所有あるときは、そこに苦がある」と、そういう事実を説いている。だたそれだけ。

弟子2
弟子2

こういう事実を「ひとつの受」と、お釈迦さん師匠は説いているのですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

補足ありがとうございます。

兵士1
兵士1

分かったような分からないような……。

兵士1
兵士1

では、ふたつのとは何ですか?

「楽」と「苦」の二つなのですよね?

お釈迦さん
お釈迦さん

ふたつの受というのは、「身受」と「心受」の二つですね。

弟子1
弟子1

身で受ける事。心で受ける事。この二つですか。

弟子2
弟子2

身と心で分けたのですね。

信者1
信者1

ならば、みっつの受は何ですか?

 

「楽」「苦」「不苦不楽」のみっつの受は嘘だったのですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

嘘ではないですよ。

 

私は確かに「楽」「苦」「不苦不楽」のみっつの受を説いています。

兵士1
兵士1

ということは、四に分けて説くことも、五に分けて説くこともできるということですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

様々な説き方がありますね。

お釈迦さん
お釈迦さん

眼から(視覚を)受け、耳から(聴覚)を受け、鼻から(嗅覚)を受け、舌から(味覚)を受け、身から(触感)を受け、心から(知覚)を受ける。

 

これはむっつの受ですね。

信者1
信者1

十も百も……、いやそれ以上、やろうと思えば、どこまでも増やすことできないですか?

弟子1
弟子1

説いたら、きりがないですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。数えきれないほどありますね。

兵士1
兵士1

無限じゃないですか……。ああ、だから、無量数えきれないなんですね。

弟子1
弟子1

確かに数えきれない無量(無限)ですが、ちゃんと一、二、三、四、限りある数字で表現(有限)されてもいますよ。

信者1
信者1

有限か無限か、どっちなんですか!?

兵士1
兵士1

なんだかんだ言って無限ってことでしょう。

信者1
信者1

でもみっつの受という時は、全部で三つなんだから、その時は有限だって事でしょう。

弟子2
弟子2

今回の話を、そういう話にしてしまうと、またケンカになってしまいますよ。

お釈迦さん
お釈迦さん

私は、事実、この通り、種々に説いているだけです。

 

それを世の中の人達は、理解せずに言い争い、互いに否定しあって私の伝えたい事を理解しようとしてくれません。

信者1
信者1

……。私が間違っていたのですか?

弟子1
弟子1

あなたが間違っているという話ではありませんよ。

兵士1
兵士1

……。なら私が間違っていたのでしょうか?

弟子2
弟子2

あなたが間違っているという話ではありませんよ。

信者1
信者1

ならば私は正しかったのですね!

兵士1
兵士1

ならば私が正しかったのですね!

お釈迦さん
お釈迦さん

この種々の「受」の話においても、如実に、事実その通りに、理解すれば、言い争い、互いに否定しあうことはないでしょう。

信者1
信者1

……。

兵士1
兵士1

……。

弟子1
弟子1

「受」の話を、言い争い、互いを否定し合う種にしてしまったという意味では、正しい理解とは言えないのでしょうね。

信者1
信者1

私も少しむきになっていました。

ごめんなさいね。

兵士1
兵士1

いや。私の方こそ無礼でした。

申し訳ありません。

お釈迦さん
お釈迦さん

自分の欲するままにしたいという気持ちが生じる。

 

これも受ですね。欲受と言っていいでしょうか。

お釈迦さん
お釈迦さん

また欲するままに動くことで、悪い方向、善くない方向へと向かうことを知り、そういう欲望から離れようとする気持ちが生じる。

 

これも受ですね。離欲受と言っていいでしょうか。

兵士1
兵士1

なるほど。そういうふたつの受もあるのですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

欲によって悪い方に転がるなら、離欲によって楽が生じますね。

 

これははじめの第一歩と言ってもいいでしょう。

信者1
信者1

はじめの第一歩ですか。

お釈迦さん
お釈迦さん

だからといって「第一歩として離欲するのは、楽が生じるから。楽を生むためだけに離欲するのです」というのは、違います。

 

これは誤解です。

信者1
信者1

そうですね。曲解していますね。

お釈迦さん
お釈迦さん

誤解を防ぐために、更に細かく説こうと思えば説けます。第二歩、第三歩、第四歩がそれぞれどういうものかと。

弟子2
弟子2

一、二、三、四……と、おそらく話せばきりがなくなるのでしょうが、例えば、その話の行きつく所まで、究極の所まで話したとしますよね。

弟子1
弟子1

そして、何も事情の知らない人に、その究極の所の話だけピックアップされて、「これこそが仏道の極致なのだ」って言われてしまうこともあるんじゃないですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。

でもそれは誤解です。

弟子1
弟子1

数字にされると分かりやすいように感じてしまいますが、かえってそれが理解を妨げてしまっていますね。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。それは「数の問題」ではないのです。

弟子1
弟子1

でも、数字を用いて説くこともありますよね?

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですが、それは「数が答え」ではないのです。

お釈迦さん
お釈迦さん

仮に数で学ぶのであれば、問題と答えだけを覚えるのではなく、途中式もしっかりと学んでください。

信者1
信者1

なるほど……。

私達に欠けていたのは、そこだったのかもしれません。

兵士1
兵士1

ありがとうございました。

補足情報

  • 出典:雑阿含経巻第17-485

(四八五)如是我聞。一時佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時瓶沙王詣尊者優陀夷所。稽首作禮。退坐一面。時瓶沙王白尊者優陀夷言。云何世尊所説諸受。優陀夷言。大王。世尊説三受。樂受苦受不苦不樂受。瓶沙王白尊者優陀夷。莫作是言。世尊説三受。樂受苦受不苦不樂受。正應有二受。樂受苦受。若不苦不樂受。是則寂滅。如是三説。優陀夷不能爲王立三受。王亦不能立二受。倶共詣佛所。稽首禮足退住一面。時尊者優陀夷以先所説。廣白世尊。我亦不能立三受。王亦不能立二受。今故共來具問世尊如是之義定有幾受。佛告優陀夷。我有時説一受。或時説二受。或説三四五六十八三十六乃至百八受。或時説無量受。云何我説一受。如説所有受皆悉是苦。是名我説一受。云何説二受。説身受心受。是名二受。云何三受。樂受苦受不苦不樂受。云何四受。謂欲界繋受。色界繋受。無色界繋受。及不繋受。云何説五受。謂樂根喜根苦根憂根捨根。是名説五受。云何説六受。謂眼觸生受。耳鼻舌身意觸生受。云何説十八受。謂隨六喜行。隨六憂行。隨六捨行受。是名説十八受。云何三十六受。依六貪著喜。依六離貪著喜。依六貪著憂。依六離貪著憂。依六貪著捨。依六離貪著捨。是名説三十六受。云何説百八受。謂三十六受。過去三十六。未來三十六。現在三十六。是名説百八受。云何説無量受。如説此受彼受等比。如是無量名説。是名説無量受。優陀夷。我如是種種説受如實義。世間不解故而共諍論。共相違反終竟不得我法律中眞實之義。以自止息。優陀夷。若於我此所説種種受義。如實解知者。不起諍論共相違反起未起諍。能以法律止令休息。然優陀夷。有二受。欲受離欲受。云何欲受。五欲功徳因縁生受。是名欲受。云何離欲受。謂比丘離欲惡不善法。有覺有觀。離生喜樂。初禪具足住。是名離欲受。若有説言。衆生依此初禪。唯是爲樂非餘者。此則不然。所以者何。更有勝樂過於此故。何者是。謂比丘離有覺有觀。内淨定生喜樂。第二禪具足住。是名勝樂。如是乃至。非想非非想入處。轉轉勝説。若有説言。唯有此處。乃至非想非非想極樂非餘。亦復不然。所以者何。更有勝樂過於此故。何者是。謂比丘度一切非想非非想入處想受滅。身作證具足住。是名勝樂過於彼者。若有異學出家。作是説言。沙門釋種子。唯説想受滅。名爲至樂。此所不應。所以者何。應當語言。此非世尊所説受樂數。世尊説受樂數者。如説。優陀夷有四種樂。何等爲四。謂離欲樂遠離樂寂滅樂菩提樂。佛説此經已。尊者優陀夷。及瓶沙王。聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻123頁c段21行 – 124頁b段17行)

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースより

  • 国訳一切経2巻76頁

登場人物「兵士と信者」に関して

本記事の中で登場する人物の中に兵士と女性信者がいます。

「原文をみてもそれにあてはまるような登場人物がいない!」と、もし気づいた方がいらっしゃた時の為に補足として書いておきます。

この記事では「兵士=瓶沙王」「優陀夷=女性信者」に当てはめて書いています。

瓶沙王

上記の漢文に於いては「瓶沙王」と王族のように書かれています。しかし、国訳一切経の注釈によれば、こちらはパーリ語で書かれている経典には「舎衛城の一士官」となっているようです。

漢文で書かれている経典は「阿含経」、パーリ仏典は「ニカーヤ」と呼ばれていますが、どちらも同じ内容のお経です。違う言葉で書かれただけの違いです。

仏教エピソードで用いた経典について
阿含経とニカーヤ、ウダーナヴァルガ、法句経、正法眼蔵随聞記、スッタニパータ、涅槃経についての簡単な説明

舎衛城とは古代インドの国の一つ、コーサラ国の首都の事です。

お釈迦さん ゆかりの地
経典に出てくる地名を地図にしました。

首都の一士官となると、首都の防衛にあたっていたのでしょうか。それとも警察のような役割だったのでしょうか。治安の維持にあたっていたのだろうか。それとも門番みたいな役割だったのだろうか……。色々想像を巡らせました。

そういう想像から、結局門番の兵士長くらいのイメージが私の中で固まったので、そのまま、門番の兵士をイメージしてイラストを用意しました。

「王と兵士では、全然イメージがちがうではないか?」と思われるかもしれません。しかし、王族も武士も兵士も戦士も、当時古代インドであったカースト制度があてはめれば、クシャトリヤの身分になります。

サンスクリットから漢文に訳された経典では「王」と書かれ、パーリ原典では「一士官」なのは、そういった理由もあるのだろうと思われます。

真偽のほどはわかりませんが、私は「瓶沙王=一兵士」として扱わせて頂きました。

優陀夷

こちらは完全に私のミスリードによるものです。優陀夷と優婆夷を読み間違えました。

原文にある「優陀夷」は、お釈迦さんの弟子の一人です。パーリ語やサンスクリット語で読むとウダーイと読まれます。

ウダーイは勧導第一の弟子と称されています。仏の教えを勧めて導くのが上手だったのでしょう。

このように○○第一という異名を持つ弟子がいます。十大弟子とも呼ばれる弟子には、それぞれ○○第一と称されています。「サーリプッタさんは智慧第一」「モッガラーナさんは神通第一」のように。

しかし、この十大弟子は全部で十人というわけではありません。十大弟子と称され、○○第一と称される弟子はたくさんいます。

なぜなら、後世の人がそれぞれ十大弟子と考える人が異なっているからです。人によって「推し」の十人が違うのです。

サーリプッタさんとモッガラーナさんは必ずと言っていいほど、誰もが十大弟子の中にランクインさせますが、その他の弟子たちは、場合によっては十大弟子入り、場合によっては十大弟子の中に入っていないのです。

なので、あまり十大弟子というのは考えない方がいいでしょう。ただ、○○第一と称されるものは、その人の個性や特徴を表す一つと捉えてもいいのではないでしょうか。

優婆夷

優婆夷(うばい)というのは、女性の在家信者を指す言葉です。

  • 比丘=男性出家者
  • 比丘尼=女性出家者
  • 優婆塞=男性在家信者
  • 優婆夷=女性在家信者

これら合わせて、サンガ(僧伽)と言います。僧の語源ですね。


「優陀夷=ウダーイ(勧導第一)」と「優婆夷=女性信者」を読み違えてしまいました。

投稿後に気づいたのですが、イラストも既に女性信者で描いてしまったため、このままにしておきます。訂正はできませんが、注釈補足はさせて頂きます。

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