本記事は「雑阿含経巻第16-415」の内容を基に作りました。
そのような話はよしなさい
今日のご飯、何だった?
私は今日お肉は入ってたよ。
マジかよ。いいなぁ。私の場合、托鉢で頂くものは、いつも決まったもんばかりなんだよ。
そうなの?
そうそう。こう言っては何だけど、実に質素な食べ物ばかりで……。○○とか、○○とか、だよ。
私は結構、色々なもの頂くよ。昨日施して頂いたものなんて、実に豪華だったよ。○○でしょ。それに○○も。
……ちょっと。同じ僧侶なのに、あなただけ、ずるくない? 今度私にも頂戴よ。
いやだよ。それにずるいことないでしょうよ。
あなたが頂く施しも私が頂く施しも、施しにはかわりないでしょうよ。
これって絶対、平等じゃないよ。少しぐらいこっちにくれてもいいじゃない!
私が頂いたものなんだから、絶対にあげないよ。あなたが直接もらえばいいじゃないか。
あなた達、一体何の話をしているのですか?
あ、お釈迦さん。ええっと……。「今日、何食べたか」って話ですよ。
そうです。「どのような施しを受けているか」という話です。
あなた達、そのような話はよしなさい。
それは仏法を理解する上で、何の利益ももたらしません。
でも、「施し」のですから、布施行にも関連するでしょう。
そうですよ。利益になる話です。
それは方向性が違います。
ですよね?
はい……
申し訳ございませんでした。
お釈迦さんは退席しました。
って、またこのパターンかよ
一体いくつあるんだ!?
経典には、まだまだ、たくさんありますよ
マジか……
「仏教トーク」は会話形式なので、毎回毎回、文章(コメント)は違いますが、実際の原文では、同じ形式の文章が続いて、いくつかの単語だけが違うって場合があります。
きっと編集する上で、同じような話(今回は「論点がずれてるよ!」という話)が集められたんだろうね。
でも、きっと、こういう話は、違う場面(違う人、違う時間、違う場所)でされていた話なんだろうね。
私ら二人だけに限った話じゃないってことか。
うーん。というか、論点がずれてしまうことなんて、誰でも起こり得るよね。
そうそう。他人事じゃなくて、自分事なんだよね。
昔でさえ、仏教の話と思ってしていた話が「そうじゃない」ってことがあったんだよね。
なら今、ここでこうしている自分も、仏教の話と思いこんでいるものが「それはそういう話じゃないんだ!」って事あるかもしれないね。
ここで、こうして仏教の話につながったのは、同じ(と思い込んでいる)話でも、その話、その話、その時、その時で、向き合ってきたから、とも言えるんじゃないかな。
ふむ。じゃぁ、同じ仏教語(仏教の言葉)でも、全然中身が違う話になっていることってあるのかな?
「業」っていう言葉は、昔からよく誤解されていたみたいだね。
誤解というか、もともと、「業」っていう言葉は、仏教以前にも使われていて、お釈迦さんがまた違う意味を込めて<業>っていう言葉を使ったみたいよ。
ちょうど、この手の話で「業」を扱っている話がありますね。
他にもたくさん同じパターンの話はありますが、一応、次で最後にしますね。
補足情報
- 出典:雑阿含経巻第16-415
(四一五)如是我聞。一時佛住王舍城迦蘭陀竹園。時有衆多比丘。集於食堂。作如是説論。某甲檀越。作麁疎食。我等食已。無味無力。我等不如捨彼麁食而行乞食。所以者何。比丘乞食時得好食。又見好色。時聞好聲。多人所識。亦得衣被臥具醫藥。爾時世尊。於禪定中。以天耳聞諸比丘論説之聲。即詣食堂。如是廣説。乃至正向涅槃。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻110頁b段5行-14行)
国訳一切経阿含部2巻32頁
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