
本記事は「雑阿含経巻第37-1024」の内容をもとに作りました。
アッサジのお見舞いに行くお釈迦さん

ゴホッ、ゴホッ……

大丈夫ですか? アッサジさん。

病気で具合がすぐれないと聞いています。無理しないでください。

かなり身体が痛いです……。床に臥してしまう時間も増えました。正直、もうダメかもしれません。

そんな事言わないで下さい。何を弱気な事を言っているのですか。

お釈迦さんは元気でしょうか。師匠である彼に会いたいですね。
でももう私には、彼の所に出向く力が残っていません。
師に出向くように頼むのもおこがましいですが、
もし彼に会えたらどんなにうれしいことか……。

私達が師匠の所へ行ってきます。

師匠は今他の修行道場にいますが、アッサジさんが師匠と会いたいと願っていること伝えてきます。

お釈迦さんは、アッサジさんの願いを聞き、遠くの修行道場から、アッサジさんの下へやってきました。

おお。師よ。友よ! ゲホゲホ……。
はるばる遠くから、こうして来てくれるなんて。
本当にありがとう。

起きなくていいですよ。横になって楽にしてください。

そんなわけには……

無理せずに。ほら、横になってください。重い病気であると聞きました。大分、辛そうですね。

痛みも、日に日に増してきます。正直、もう耐えれないと思うくらい、痛い。生きているのが辛いと感じてしまうのです。

お願いですから、そんな風に言わないでください。
私達はアッサジさんともっと一緒にいたいのです。
修行道場での生活をしたいのです。

いえ。何が一番つらいかって……。修行道場の他の皆と同じようにできないことなのです。師匠や他の皆と共に行ってきた、修行の日々が懐かしい。
この病気のせいで、私はもう以前のようにできないのです。

そうして変わってしまった日常を悔いる必要なんてありませんよ。
アッサジさんの頑張りは、今も私達は感じております。

それは無理ですよ。皆と同じようにできない、このわが身が、何より悔しいのです。

あなたは何か戒律を破るようなことをしたのですか?

そうですよ。アッサジさん。一生懸命、日々病気と戦っているじゃないですか。戒律を破った事なんてないじゃないですか。

確かに私は戒律を破っていません。しかし……

修行において、あなたは戒律を破っていない。だったら何を悔いる必要があるのですか?

私が病気でなかった頃は、坐禅ももっと落ち着いてできました。もっと心穏やかでした。でも今はこの病苦のせいで、心穏やかではありません。病気のせいで、落ち着いて坐る事もできないのです。

それは仕方がない事ではありませんか。

だから私は思うのです。あの昔の頃の坐禅のような心穏やかな時は、もう自分には二度と訪れないのではないだろうか……と。

あの穏やかな境地から、私は遠のき、もう失ってしまったのではないだろうかと。

アッサジ。
その昔の時のあなたが、本当のあなただと思っているのですか?
いまのあなたはあなたであってほしくないのですか?

どういう意味でしょう?

例えば、昔のあなたの身体が本物のアッサジであって、
今のあなたの身体はアッサジではないというのですか?

今のこの身体も私自身です。

あなたの身体は変化せず、ずっと変わらないままですか?

いいえ。違います。

あなたは変化せず、ずっと変わらないままですか?

いいえ。違います。

どこか別の所に、本物のあなたがいる。たとえば、
昔の身体が本体で、今は仮の姿であると思っていますか?

いいえ。

アッサジ。
今のあなたもあなた自身です。昔のあなたもあなた自身です。
どれが本当のあなたであるか、アッサジであるか。
そんな風に考えていますか?

いいえ。

では何故あなたは、
あなた自身が変わった事を悔いているのですか?

それは、今の私は正しく物事を考えることができないからです。今、師が私に言ってくれたことのように、正しく物事を考えていない……。

坐禅に集中できないとか、
坐禅中に落ち着くことができないとか、
心穏やかな境地に入ることができないとか、
たとえそうなったと感じたとしても、
「私の坐禅は衰えた」と思ってはいけません。

「どれが正しい自分なのか」の私は先ほど、あなたに問いました。
その後に「自分は正しく考えられていない」と、
アッサジは言っていましたね?

はい。その通りだと思います。私は正しく考えられていない。

しかし、先ほどの私の問いに対して、あなたはきちんと答えていましたよ。
アッサジ。正しく答えられるあなたを見ずに、あなたは何に対して正しく考えられていないと言っているのですか?

私は、正しく考えられているのですか?

だからこそ「私の坐禅は衰えた」と思うべきではありません。
坐禅は坐禅なのですから。まさにそれを知るべきです。
だから、大丈夫ですよ。

今のこのように老いて、病を患った私でも、本当に大丈夫なのですか?

大丈夫に決まっているじゃないですか。

戒律も破らず、アッサジさんは、
師匠の問にきちんと答えているではありませんか!

坐禅も、以前のようにできないと思っていましたが……、そう思うべきではない……。そうか、そうですね。坐禅は坐禅なのですから。

あなたはそれを知っているはずです。だから大丈夫ですよ。

私は……、大事なことを見失っていたようです。

まぁ、そんなもんですよ。それも含めて大丈夫です。

ありがとうございます。師匠。

お釈迦さんとのやり取りに励まされたアッサジさんは、その後、病気が治り、元気になったそうです。
補足情報
出典
- 雑阿含経巻第37-1024
(一〇二四)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時尊者阿濕波誓住東園鹿母講堂。身遭重病極生苦患。尊者富隣尼瞻視供給。如前跋迦梨修多羅廣説。謂説三受。乃至轉増無損。佛告阿濕波誓。汝莫變悔。阿濕波誓白佛言。世尊。我實有變悔。佛告阿濕波誓汝得無破戒耶。阿濕波誓白佛言。世尊。我不破戒。佛告阿濕波誓。汝不破戒。何爲變悔。阿濕波誓白佛言。世尊。我先未病時得身息樂。正受多修習。我於今日不復能得入彼三昧。我作是思惟。將無退失是三昧耶。佛告阿濕波誓。我今問汝。隨意答我。阿濕波誓。汝見色即是我異我相在不。阿濕波誓白佛言。不也世尊。復問。汝見受想行識。是我異我相在不。阿濕波誓白佛言。不也世尊。佛告阿濕波誓。汝既不見色是我異我相在。不見受想行識是我異我相在。何故變悔。阿濕波誓白佛言。世尊。不正思惟故。佛告阿濕波誓。若沙門婆羅門三昧堅固。三昧平等。若不得入彼三昧不應作念。我於三昧退減。若復聖弟子不見色是我異我相在。不見受想行識是我異我相在。但當作是覺知。貪欲永盡無餘。瞋恚愚癡永盡無餘。貪恚癡永盡無餘。已一切漏盡。無漏心解脱。慧解脱。現法自知作證。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。佛説是法時。尊者阿濕波誓不起諸漏。心得解脱。歡喜踊悦。歡喜踊悦故身病即除。佛説此經。令尊者阿濕波誓歡喜隨喜已。從*坐起而去。差摩迦修多羅如五受陰處説
(大正No.99, 2巻267頁b段5行-c段6行)
- 国訳一切経阿含部3巻43頁
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