【仏教トーク⑥ー2】続・琴のたとえ

ちしょう
ちしょう

この会話は、「雑阿含経巻第9-254」の内容を参考しました。

仏教問答集⑥「琴のたとえ」の続きとなります。

 

ちしょう
ちしょう

前回の話では、修行をやめてしまいたいと悩んでいたソーナさんが、お釈迦さんに相談。そこで、自分が得意とする音楽、琴の楽器に喩えた話をお釈迦さんから聞きました。

 

そのお話に何か感じる所があったソーナさんは、引き続きお釈迦さんの弟子を続けることにしました。

 

 

 

ちしょう
ちしょう

今回の話は、それから、ソーナさんが無事、その迷いを解決した後のお話になります。

 

師匠であるお釈迦さんに自分が気づいたことを、報告しにいった所から、この会話ははじまります。

続・琴のたとえ

ソーナ
ソーナ

師匠。そして皆さんにお話ししたいことがあります。

お釈迦さん
お釈迦さん

どうしたのですか?

ソーナ
ソーナ

以前、私が修行をやめたい、弟子をやめたいと言っていた時のことなんですが。

弟子1
弟子1

あ~、そんなことありましたね(笑)

ソーナ
ソーナ

あの時は、お世話になりました。

弟子2
弟子2

いえいえ。私たちもよい勉強になりましたから。

お釈迦さん
お釈迦さん

それで今回、お話したいこととは?

ソーナ
ソーナ

はい。結論から申しますと、私、あの時の師匠の教えが、どういうことか、ようやく腑に落ちたのです。

弟子1
弟子1

えっ!? それって、悟ったってことですか?

ソーナ
ソーナ

いや、別に悟りを得たとか、得ていないとか、そういう話ではありません。

ソーナ
ソーナ

たとえ、悟りを得なくても、修行の道を歩んでいれば、その道がそのまま悟りといいますか……、なんて言いますか……。

弟子2
弟子2

ソーナ
ソーナ

私はまだまだ知らないことばかりです。学びの道を歩んでいます。

弟子2
弟子2

じゃぁ悟っていないのですね?

欲望や怒りといった煩悩が尽きる、そんな境地には至っていないということですよね?

ソーナ
ソーナ

まぁ、それはそうなんですが……

お釈迦さん
お釈迦さん

いいですよ。思うように話してみてください。

ソーナ
ソーナ

未だに、煩悩を尽くさず、悟りを得ていない。

でもその人が、学びの道にあって、学ぼうという向上心を持ち続けているのならば、もう学ぶということは成就し成し遂げています。

ソーナ
ソーナ

私は、そんな学びの道、修行の道に歩んでいることに、ようやく気がつきました。

弟子1
弟子1

んー。私にはよくわかんないので、順を追って説明してもらえますか?

弟子2
弟子2

そうですね。弟子をやめたいと思った時の話、以前した「琴のたとえ」話が何か関係しているのではないですか?

ソーナ
ソーナ

確かにあの「琴のたとえ」話は、私にとって、大きな出来事でした。もし、お釈迦さんとの思い出の中を語ってくださいと言われたら、一番にその話をするでしょう。

ソーナ
ソーナ

あの時、私は、修行をやめたいと思っていました。

弟子2
弟子2

そうですね。元々、ソーナさんは頑張り屋さんでしたから、気を張り詰めすぎて、心身ともに、だいぶ、疲れていましたよね。

ソーナ
ソーナ

そうですね。師匠に言われた通りに、日々の行動をしていました。

修行に励んでいるといえば、聞こえはいいですが、本当に、言われた通りに、日々の行動を重ねていました。

弟子1
弟子1

一挙手一投足が、本当に師匠や仲間周りのいう通り、理想通りに動いているように見えて、私は本当に「すごいな、頑張っているな」と思っていましたよ。

ソーナ
ソーナ

皆さんには「修行やめたい」と言い出すまでの私がそのように見えていたのですね。

確かに、頑張っていました。必死でした。

ソーナ
ソーナ

ただ、頑張って頑張って、ひたすら熱心に、言われた通りにやっているのに、悟れない。悟りを得ることができない。

 

何も成果が得られないことに、私は焦りを感じました。

 

その焦りは、いつしか脅迫観念みたいになっていました。

「もっと頑張らなきゃ」

「これまで以上に頑張らなければならない」

「ここまで頑張ってもダメなら、更にもっと頑張らなければダメなんだ」って……。

弟子2
弟子2

あの頑張りの裏にはそんな想いがあったんですか……

ソーナ
ソーナ

そして、限界まで来てしまったとき、もう諦めちゃったんです。

これ以上は続けられない。自分にはもう無理だと。

弟子2
弟子2

あの頑張りが、焦りや脅迫観念になっているのなら、そりゃ無理もないですね。

ソーナ
ソーナ

確かに……。あの時の私にとって諦める(明らめる)は、ギブアップと同じ意味だったのかもしれませんね。

弟子1
弟子1

だから修行をやめたい、弟子やめたいと思っちゃたんですね。

ソーナ
ソーナ

「修行を頑張らなければ!」と張り詰めた私の心は、もうすでに、プツンと切れてしまっていたのでしょうね。

 

「あなたの頑張りは、まるで張り詰めた、今にも切れてしまいそうな弦のようです」と、あの時、お釈迦さんししょうに言われました。

 

後になって、私の修行が、私の行為が、私の頑張りが、硬く張られた琴の弦のようになっていたことに気がつきました。

弟子2
弟子2

あの時は「とりあえず落ち着いてください、肩の力を抜いてください」って言っても、その声が届きにくかったですもんね。

弟子1
弟子1

そだね。なのに「力を抜いてください」って言っているだけなのに、弟子やめちゃうって、全部投げ出すって、聞かなかったですもんね。

ソーナ
ソーナ

あの時の私は、緩めることにも精いっぱいになっちゃってたんですよ。「頑張れ、頑張れ」といつもりきんでいましたから。

弟子1
弟子1

りきみすぎて、自分でも気づかないうちに、握り拳になっている。

常に手がグーになるほど、力が入っているから、「とりあえず、力抜いて、手を広げてください」っていうと、今度は力いっぱい、手をパーにしちゃうような感じでしたよ。

ソーナ
ソーナ

まさにそんな感じですね。

だから「頑張る」という選択肢も、「緩める」という選択肢も、結局、「止める」ってことになっちゃったんでしょうね。

弟子2
弟子2

そう考えると不思議ですね。

頑張っても、緩めても、「止める」という結果になっているってのは……。

ソーナ
ソーナ

だからこそ、琴の話は私にとって、とてもありがたい話でした。

「琴を弾く時どうしたら良い音が出るか」と考えるように、私は修行についても同様に考えることにしたんです。

弟子1
弟子1

弦を硬く張りすぎても良い音は出ない。

張れば張るほど、いい音がでるというわけではない。

むしろ、張りすぎれば、音すら出なくなってしまう。

ソーナ
ソーナ

頑張れば頑張るほど、良いというものはなない。

むしろ、張り詰めすぎれば、無理が来てしまう。

 

「琴なら音がでなくなる」つまり「修行なら修行でなくなる」と私は考えるようになりました。

弟子2
弟子2

弦を緩めすぎても、良い音はでない。

緩めれば緩めるほど、いい音が出るというわけではない。

むしろ、緩めすぎれば、音すらでなくなってしまう。

ソーナ
ソーナ

緩めれば緩めるほど、良いというものではない。

むしろ、緩めすぎれば、たるんでしまう。怠けてしまう。

 

「琴なら音がでなくなる」つまり「修行なら修行でなくなる」と私は考えるようになりました。

ソーナ
ソーナ

そう考えると、自然と修行に向き合うことができました。

弟子2
弟子2

それで、修行でその「良い音」が見つかったのですか?

ソーナ
ソーナ

そうですね。自分にとっての「良い音」を見つかりましたよ。

たから無理なく、そしてまた堕落することなく、今でも修行が成り立っているわけですから。

弟子2
弟子2

修行で「良い音」に見つけたということは、悟ったということですか?

ソーナ
ソーナ

「良い音」を悟るに気づくという意味で、使うなら、別に間違いではないと思いますけど。

弟子1
弟子1

つまり、その「良い音」が悟りということですか?

ソーナ
ソーナ

そう言ってしまったら、全然違うと思います。

弟子2
弟子2

それはどういうことですか?

ソーナ
ソーナ

琴を弾く時、どうしたら「良い音」がなりますか?

弟子1
弟子1

え、だから、強すぎず、緩めすぎず、ちょうどいい所(正解)を見つけるのでしょう。

ソーナ
ソーナ

まぁ、そうなんですが、そのちょうど良い所を見つけると「良い音」が出せます。つまり、そこが正解です。

ですが、それって誰もが当たり前にやっていることですよね。

弟子2
弟子2

その正解こたえが悟りなのではなくて?

だって「良い音」がなるのでしょう?

ソーナ
ソーナ

いや、確かにその時「良い音」がなったとしても、その場限りのことですよ。真剣に琴の弾こうと思えば、琴を弾くのは、一回限りのことではありませんよね。

弟子2
弟子2

ああ、確かに。琴を弾くって一回限りのことではないですもんね。

ソーナ
ソーナ

「琴を弾く時、どうしたら良い音がなるか?」じゃなくて、「琴を弾く時、毎回毎回、どうしたら良い音がなるか?」ってことを、自然に考え始めますよね。

弟子1
弟子1

毎回、毎回、自分の具合も、周りの状況も全然違いますもんね。

弟子2
弟子2

毎回毎回、正解こたえは違うということですね。

それは音楽や修行に限らず、なんでもそうですよね。

ソーナ
ソーナ

そうです。あらゆるものは変化しています。常に変わらないものなどありません。

ソーナ
ソーナ

それで、琴を弾く時、毎回毎回、どうしたら「良い音」がなるでしょうか?

弟子1
弟子1

え、だから、琴を弾く毎に、強すぎず、緩めすぎず、ちょうどいい所(正解)を見つけるのでしょう。

ソーナ
ソーナ

琴でいえば、それが「調律チューニング」です。

弟子2
弟子2

楽器を弾く度に、ちょうど良い音程に合わせるわけですね。

ソーナ
ソーナ

はい。もちろん、琴の具合や演奏する場所の温度や湿度にもよりますし、そもそも演奏仲間(オーケストラ)でも、合わせる音程が違います。

弟子1
弟子1

前回の正解はここ(赤線)だった。

としても・・・・・・

弟子2
弟子2

今回の正解はここ(赤線)だったり……

弟子1
弟子1

人間だからたまに失敗することもあるよね。

 

ソーナ
ソーナ

もちろん、失敗がないとは言えませんよね。

でもそんなときは、すぐまた修正しますよね。

ソーナ
ソーナ

その都度、その都度、繰り返し、繰り返し、調律を行います。

弟子2
弟子2

「繰り返す」って同じことを何回も行う事だよね。

ソーナ
ソーナ

そうやって、何回やったかなんて、そのうち数えなくなりますよね。でも、その毎回、毎回は決して同じではありません。

弟子1
弟子1

同じことを繰り返しているのに、毎回、毎回、違うですね。

ソーナ
ソーナ

やがて、一つ一つの線が連なって、いつしか、一本の線には見えなくなります。

ソーナ
ソーナ

私たちは、そうやって、一歩一歩、学んでいくわけですよね。

その一歩一歩が、その足跡が、やがて道みたいになっているんじゃないですか。

弟子2
弟子2

そういえば、道というものは、元々、自然にはないものですね。

 

人や獣が歩きやすい場所を通っていくうちに、草が踏み分けられ、土が踏み固められ、次第に歩きやすくなった場所を更にまた歩く。そして草も生えにくくなって、またさらに歩きやすくなる。

 

そうやって次第に、自然と出来上がっていったのが道と呼ばれるんだって。

ソーナ
ソーナ

その一歩一歩は自分だけでなく、他の人達、昔の人達も歩いた場所。修行でいうなら、お釈迦さんししょうが、そして、それを教えられた他の弟子達も含めて、歩いている場所が、道になっている。

 

だから仏道ともいうのでしょう。

弟子1
弟子1

そういえば、お釈迦さんししょうも自分が道(仏道)を作ったわけじゃなく、昔の人達が歩んだ古道を見つけただけって話してましたよね?

ソーナ
ソーナ

そして、その道は、私達に、歩むべき所、進むべき方向を教えてくれます。

弟子2
弟子2

道がなければ迷うけど、道があるなら、そこが歩く所とは理解できますもんね。

ソーナ
ソーナ

だから、一歩一歩(修行)そのものが道であって、その道が自分の進むべき方向を示す道筋(悟り)なんじゃないかなと。

 

学び(修行)の道を歩んでいることが、学びの成就(悟り)になるとはそういうことです。

お釈迦さん
お釈迦さん

なるほど。

ところで、どうしたら「良い演奏」となるのでしょうかね?

弟子1
弟子1

え?

弟子2
弟子2

ん?

ソーナ
ソーナ

そうなんですよね。琴を弾くことに真剣に向き合っていれば、自然と、そう考え始めますよね。話しているだけでは、見失いがちなんですけど……。

ソーナ
ソーナ

本番で、良い音をだすだけでは、いい演奏とはいえないし、闇雲に練習したとしても、いい演奏ができるわけではない。

ソーナ
ソーナ

でも、それは、修行と向き合っているからこそ、自然と見えてくることなのでしょうね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました