諦だけではあまり馴染みが無い言葉に聞こえるかもしれません。
「諦める」という字です。
一般的には、ギブアップするという意味と受け取られていると思います。
しかし、真実を「明らめる」とも書けるように、諦めるも本来は、明らかにすると同じ意味です。
できないことを知るからこそ可能性を見出せる
おそらく、諦めるが、ギブアップするという意味で捉えられたのも理由があると思われます。
きっと「あきらめる」ということは、自分にできないことに気づくことでもあったのでしょう。
例えば、その昔、人は空を飛ぶことはできませんでした。
鳥のように飛びたいと願った人はたくさんいたでしょう。
しかし、人は鳥ではありません。人には空を飛ぶ羽根がありません。
たとえ羽根を真似たとしても、決して飛ぶことはできません。
生身で空を飛べる鳥とは、あきらかに身体のつくりが違います。
空を飛ぶほどの筋力もなければ、また呼吸器もありません。
しかし、人は空を飛べました。
鳥と同じように飛ぶことを諦めましたが、鳥のように飛べることを明らめました。
どうあがいてもできない事はできないと気づく。それも「あきらめる」ことです。
そのできないという事に気づくのは、決してギブアップするわけではありません。
できないことはできないと明らめ、できる方法を明らめていきました。
できないことを無理に通すわけではなく、己を知り、他を知り、できないことを可能にしました。
そうして人は別の方法で空を飛ぶ可能性を見出しました。
できないと「あきらめる」ことは、できる可能性を「あきらめる」事に繋がるわけです。
できないことを知るからこそ可能性を見出せる。できないことはできないと諦めるからこそ、できる可能性は無限大に拡がるのではないかと私は思うのです。
だからこそ「真実を諦める」となるのではないでしょうか。
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