
本記事は「雑阿含経巻第37-1039」の内容をもとに作りました。
牛の糞と肥料

私はとあるバラモン(司祭)様の教えを信仰しております。かの御方の教えは、本当に素晴らしいものだと考えます。

あなたは、そのバラモン修行者のどんな教えを好んでいるのですか?

そのバラモン様は、お水を供え、天に仕えています。杖を持ってお風呂に入り、常に手を浄らかにしています。私はかの御方のお言葉を耳にした時の事です。

月の十五日、特別な洗髪剤でこの髪を浄め、白檀のお香をつけ、修行によって、その身を清められていました。

かの御方は、牛の糞が塗り広げられた地に横になって眠り、翌朝、早く起きて、その眠っていた地に触れました。そして宣言したのです。「この地は清浄である!」と。

その方が牛の糞を手にすると、それは清らかなものになるという事ですか?

ええ。私は実際に目にしました。あの清らかな手で、牛の糞の塊を手に執り、その辺りの雑草を混ぜていました。

そして、宣言したのです。「これは清らかなものである!」と。しばらくすると、それは本当に清浄なものとなっていたのです。

清浄なものとは、具体的に、何だったのですか?

作物を育てるのに、それを使うと不思議と作物が豊かに実るのです。このような類の物を生み出すバラモン様の清らかさを、私は信仰しています。

それって肥料なのでは……?

いいえ。汚物でした。それが作物を育む清らかな者となったのです。ですから、かのバラモン様が清らかとするものは、清らかなのです。かのバラモン様こそ、清らかな御方です。

黒には黒、不浄には不浄と呼ばれる所以があります。
重たいものを背負えば、その力は下へと向かうように。

しかし、実際に私が汚物(黒)(不浄)だと思っていたものが、清らかな物(白)へと変わりました。悪いものが善いものへと昇華したのです。

いくら朝早く起きて、地に触れ、口で「これは清らかなものである!」と宣言しても、不浄なものは不浄です。

しかし……

例えば、人殺しは悪い事(黒)だと思いますか?

そりゃあ。人殺しという行為は、真っ黒な行為でしょう。

朝早く起き、地に手を触れ、これは清らかな行為だと宣言したら、それは白く清らかな行為となりますか?

……。

財産を盗む。節操なく、みだらな行為をする。
人を惑わす為に、妄言を語る、事実と反して嘘をつく、悪口を言い、ごまをすり、二枚舌を使う。
他者の物を我が物にしようと強欲になり、怒りに身を任せ、強要し、暴力をふるう。
これらの行為が清らかな行為だと思いますか?

いいえ。黒です。不浄です。

「これらの行為が黒ではない。悪い事だと思えない」「だからこれらの行為は白だ! 清浄だ!」と説く。
そういった見解を持つ事は、清らかな行為だと思えますか?

いいえ。悪い事ですね。黒だと思います。

よって、黒には黒、不浄には不浄と呼ばれる所以があります。

人と人を殺し合い、そういう世界になれば、手は常に血生臭く、いつ殺されるかわからないと常に不安と恐怖が付きまとう。常に警戒し、心穏やかに過ごせる時なんて無くなってしまう。

そうですね。だから黒なんですよね。

どんなに宣言したって、不浄は不浄、黒は黒ということですね。

黒は黒だから入れ替わることもない。そういうことですか?

いや、ええっと……。それは少し違うと思います。

例えば、殺すという事は悪い事ですが、その意味をよく知り、その殺す事から離れるとしましょう。これは浄ですか? 不浄ですか?

浄だと思います。

朝早く起き、地に触れ、「これは不浄な行為だ!」と宣言すれば、それは黒く、不浄な行為となりますか?

いいえ。なりません。

地に触れようと触れまいと、またどう宣言しようとしまいと、不浄は不浄なのです。
そして、白には白、浄には浄と呼ばれる所以があります。

白は白、黒は黒という話ですか?

私は牛の糞(黒)が、結果的に作物を育て豊かにするもの(白)へと変わった所を目にしました。しかし、お釈迦さんは、黒は黒だし、白は白である説いている。
黒が白になるわけない、白が黒になるわけないと説いているように聞こえます。

それは違いますね。よく考えてみてください。

「黒・悪い・不浄」「白、善い・浄」と、とりあえず、この2点で話していますよね。

えっと、ここまでの話を整理すると、朝早く起きる。地に触れる。「これは浄、或いは不浄だ」と宣言する。
これらの行為と、その行為や物が浄であるか不浄であるか、そこに関係性はないということですか?

そうとも言えますね。

変化はするのですよ。人を殺す事は悪い事だと知っていますよね?
つまり、殺す事はどういう事なのか、あなた達は知っている。その悪をよく知るからこそ、そこから離れることを考えるわけです。

つまり、その離れるという行為が善となっているということですか?

黒をよく観て、知らなければ、黒は黒のままですし、白をよく観て知らなければ、白も黒となる事もあるのですよ。

黒は黒、白は白だけど、黒が白になることも、白が黒になることもあるという事ですか。

少なくとも、①地に触れたり、浄・不浄と宣言したりする事と、②黒が白に変化する事。この2点に関係性はないわけですね。

なるほど。牛の糞が作物を育む肥料となるように、黒が白に変化する。ただ、その見方を間違えれば、白は黒にもなるし、黒を白だと思い込む事にもつながってしまうという事でしょうか。

ただ、白が黒に、黒が白に変化すると言いますが、どこから白でどこから黒なのか、皆さんは分かりますか?

え? 牛の糞が黒、肥料が白。それは分かりますが、どこからどこまで黒で、どこからどこまでが白かと言われても……。

黒と白の境界線ってことですか……?

すみません。わからないです。

その通り、分からないんですよね。白・黒、浄・不浄と分別する見方も大事です。また白が黒に、黒が白に変化すると言っても、その線引きははっきりとできない、分別(分けて別々にする)ことができないという見方も大事です。

なるほど。興味深いですね。

その事を踏まえてよく観察し、思い込みは避けてください。

はい。ありがとうございました。
補足情報
出典
- 雑阿含経巻第37-1039
(一〇三九)如是我聞。一時佛住王舍城金師精舍。時有淳陀長者來詣佛所。稽首佛足退坐一面。爾時世尊問淳陀長者。汝今愛樂何等沙門婆羅門淨行。淳陀白佛。有沙門婆羅門。奉事於水。事毘濕波天。執杖澡罐常淨其手。如是正士能善説法言。善男子。月十五日以胡麻屑菴摩羅屑。以澡其髮。修行齋法。被著新淨長髮白㲲。牛糞塗地而臥其上。善男子。晨朝早起以手觸地。作如是言。此地清淨。我如是淨手。執牛糞團并把生草。口説是言。此是清淨。我如是淨。若如是者見爲清淨。不如是者永不清淨。世尊。如是像類沙門婆羅門。若爲清淨我所宗仰。佛告淳陀。有黒法黒報。不淨不淨果。負重向下。成就如此諸惡法者。雖復晨朝早起以手觸地。唱言清淨。猶是不淨。正復不觸亦不清淨。執牛糞團并及生草。唱言清淨。亦復不淨。正復不觸亦不清淨。淳陀。何等爲黒黒報。不淨不淨果。負重向下。乃至觸以不觸。悉皆不淨。淳陀。謂殺生惡業。手常血腥。心常思惟。撾捶殺害。無慚無愧。慳貪悋惜。於一切衆生乃至昆蟲。不離於殺。於他財物聚落空地皆不離盜。行諸邪婬。若父母兄弟姊妹夫主親族。乃至授花鬘者。如是等護以力。強干不離邪婬。不實忘語。或於王家眞實言家。多衆聚集求當言處。作不實説。不見言見。見言不見。不聞言聞。聞言不聞。知言不知。不知言知。因自因他。或因財利。知而妄語而不捨離。是名妄語。兩舌乖離。傳此向彼。傳彼向此。遍相破壞。令和合者離。離者歡喜。是名兩舌。不離惡口罵。若人軟語説悦耳心喜。方正易知。樂聞無依説。多人愛念。適意隨順三昧捨。如是等而作剛強。多人所惡。不愛不適意。不順三昧。説如是等言。不離麁澁。是名惡心。綺飾壞語。不時言。不實言。無義言。非法言。不思言。如是等名壞語。不捨離貪於他財物而起貪欲。言此物我有者。好不捨瞋恚弊惡。心思惟言。彼衆生應縛應鞭應伏應殺。欲爲生難。不捨邪見顛倒。如是見。如是説。無施無報無福。無善行惡行。無善惡業果報。無此世。無他世。無父母。無衆生生世間。無世阿羅漢等趣等向。此世他世。自知作證。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。淳陀。是名黒黒報。不淨不淨果。乃至觸以不觸。皆悉不淨。淳陀。有白白報。淨有淨果。輕仙上昇。成就已。晨朝觸地。此淨我淨者。亦得清淨。若不觸者。亦得清淨。把牛糞團手執生草。淨因淨果者。執與不執亦得清淨。淳陀。何等爲白白報。乃至執以不執亦得清淨。謂有人不殺生離殺生。捨刀杖。慚愧悲念一切衆生。不偸盜。遠離偸盜。與者取不與不取。淨心不貪。離於邪婬。若父母護。乃至授一花鬘者。悉不強*干起於邪婬。離於妄語。審諦實説。遠離兩舌。不傳此向彼。傳彼向此。共相破壞。離者令和。和者隨喜。遠離惡口不剛強。多人樂其所説。離於壞語。諦説時説實説義説法説見説。離於貪欲。不於他財他衆具。作已有想。而生貪著。離於瞋恚。不作是念。撾打縛殺。爲作衆難。正見成就。不顛倒見。有施有説報有福。有善惡行果報。有此世。有父母。有衆生生。有世阿羅漢。於此世他世。現法自知作證。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。淳陀。是名白白報。乃至觸與不觸皆悉清淨。爾時淳陀長者聞佛所説。歡喜隨喜作禮而去
(大正No.99, 2巻271頁b段1行 – 272頁a段9行)
- 国訳一切経阿含部3巻43頁
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