薪をくべる たとえ話|お経に載っている仏教用語の解説「取」

ちしょう
ちしょう

本記事は「雑阿含経巻第12-285,286」の内容を基に作りました。

分別にすることは薪をくべること

お釈迦さん
お釈迦さん

今回は「取」について、お話しましょうか

弟子1
弟子1

「取」ですか? 「取る」ってことですか?

弟子2
弟子2

仏教大辞典によれば「取」とは、「様々な対象を求めて止まず、取って放さないこと」ってあるね。

弟子1
弟子1

自分のものにしたいという欲望、自分のものは手放したくないという欲望。所有欲って事かな?

弟子2
弟子2

簡単に言えばそうかな。もっと単純に「取る」から連想してみてもいいかもね。

弟子1
弟子1

「手に入れる」「この手につかもうとする」「手に入れたものは、手放したくない」みたいな?

弟子2
弟子2

所有欲と手の動作を重ねて想像するとわかりやすいかも

お釈迦さん
お釈迦さん

ふむ。「取」に執らわれると、手に入るか、手に入らないか、それがその人にとって大きな問題となります。

弟子1
弟子1

「自分の物である」 or 「自分の物でないか」

弟子2
弟子2

「自分の手の内にあるか」 or 「自分の手から放れているか」

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。しかし、以前、こんな話をしましたよね?

そこで、確か「自分のものであろうとなかろうと、その物自体はあることに違いはない」という話を誰かしていませんでしたか?

弟子1
弟子1

はい。

弟子2
弟子2

確か「有」「無」の話でしたっけ?

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。

「手の内につかみとろうということにらわれる。

また、如何に自分の手の内に収めるか、かんがえる

そうじゃなくて、よく観て、よく考えてほしいのです」

と私も言いました。

弟子1
弟子1

「手に入れようが入れまいが、その物自体はある。だけど、自分の手の「内」にあるか、自分の手の「外」にあるか。「取」にらわれると、それが物事の中心になってしまう。」と、私も言ったような……

お釈迦さん
お釈迦さん

手の「内」にあるか、手の「外」にあるかと言いますが、例えば、物が有る。

そうですね。ここに私達が着ている衣があります。この衣はここに有りますよね?

弟子1
弟子1

はい。確かに有ります。

お釈迦さん
お釈迦さん

ならばこれはずっと「有」るものですか?

弟子1
弟子1

いやいや、ずーぅっと有るわけないじゃないですか。衣だって痛むし、破けるし……。

弟子2
弟子2

いつかは「無」くなりますね。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。「有」るけれどもいつかは「無」くなる。

いつか「無」くなるけど、ここに「有」る。

弟子2
弟子2

お釈迦さんししょうがいつも説いていますが、物事をよく観察すると、「無常」ということが見えてきますよね。

弟子1
弟子1

「あらゆるものは変化している」ですよね。

お釈迦さん
お釈迦さん

はい。でも、例えば、所有した物は、自分が持っているのが、当たり前になりますよね。

弟子1
弟子1

そりゃ、いつも身に着けていたら、有るのが当たり前になりますよね。

お釈迦さん
お釈迦さん

人間、それが当たり前になってくると、どんどん無関心になっていきませんか?

弟子2
弟子2

ああ、そうかもしれませんね。そして、あまり大事にしなくなっていく。有るのが当然、いるのが当然だと思って……。

お釈迦さん
お釈迦さん

でも、その当たり前に「有」るものは、いつかは「無」くなるのです。それをどう思いますか?

弟子1
弟子1

私は、いつかは無くなることを知っているからこそ、今ここにあるこの瞬間を大切に思うことができると思います。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうですね。中には、無くなってはじめて、その有難ありがたさに気づく人も多いですね。

弟子2
弟子2

でも、そもそも、当たり前に「有」るものも、本来、いつかは「無」くなるわけじゃないですか。

いつ無くなるかはわからないけど、いつかは無くなることは、知っているはずですよね。

弟子1
弟子1

そうだね。当たり前になると見落としがちだけど……。

お釈迦さん
お釈迦さん

当たり前に自分の目の前に有るものでも、いつかは無くなる。だから本来、「有」るってことは、私たちが想像する以上に、難しい事なんでしょうね。

弟子1
弟子1

有ることは難しい。だから有り難いか……。

弟子2
弟子2

当たり前にある事は、実は有難い事である。

そういうことですか?

弟子1
弟子1

それに、どんなけ有難い事でも、それが日常的に身近にあると、当たり前になってくるよ。

お釈迦さん
お釈迦さん

当たり前は有難い。

そして有難いことも、当たり前になる。

弟子2
弟子2

一度手に入れて、所有すると、それが当たり前になってしまって、大切にしなくなる。

弟子1
弟子1

で、結局、次の物、次の物ってきりがなくなるじゃない?

弟子2
弟子2

うん。それは、まだ手に入れていないもの、より手に入りにくいもの。有ることが難しいと思っているものが欲しくなっちゃうってわけか……。

弟子1
弟子1

当たり前は当たり前になって大事にしなくなる。

有難いは有難いで特別扱いして執着してしまう。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうなると、例えるなら、炎の中に、どんどん薪をくべるようなものでしょう。

弟子2
弟子2

かまどに、どんどん薪をくべていったら、いつしか、炎の勢いが、かまどの許容範囲をこえてしまう……

弟子1
弟子1

周りが高温になって、周辺から火が出てしまう。例えば、かまどの屋根が燃えちゃうことも……。

弟子2
弟子2

かまどの屋根から、となりの家に引火したら……

弟子1
弟子1

どんどん、どんどん、かまわずに、薪をくべ続けたら、いずれ、大火災になってしまうね。

お釈迦さん
お釈迦さん

薪が増えれば、炎は増す。

ならば薪を増やさなければ……?

弟子2
弟子2

当然、火の勢いは減っていきます。

お釈迦さん
お釈迦さん

その通りです。

では、薪をくべないとは、どういう事でしょう?

弟子2
弟子2

「内」or「外」、「有」or「無」「当たり前」or「有難い」。

こうして、別々にすることが、分別することが薪をくべることだとすると……

弟子1
弟子1

手の「内」だろうが「外」だろうが、そこに「ある」ことには違いない。

こういう見え方は、薪をくべないことにつながるんじゃないですか?

弟子2
弟子2

必ずしも、自分の所有物にする必要なんてないってことかな?

弟子1
弟子1

まぁ、必要なら自分の物にしなくても、その時だけ借りることだってできるわけだし、シェアできることもたくさんあるしね。それに、自分に必要ないなら他の人にあげてもいい。

弟子2
弟子2

でも、所有物かどうかにこだわると、貸し借りだってできないし、自分に必要なくても手放せない。自分に必要なら、自分の物にしたないと気が済まなくなる。

弟子1
弟子1

簡単にいえば、融通が利かなくなるってことかな(笑)

弟子2
弟子2

なるほどね。

じゃぁ「有」「無」でいえば、どうなる?

弟子1
弟子1

例えば、いくら大切なものでも、それがずっと間違いなく「ある」と思えば、私は大切にできなくなってしまうだろうと思う。

 

だってどんなに、ぞんざいに扱っても、そこにいてくれる、あり続ける事が当然の事だろうと思ってしまったら、必然的に扱いは雑になるよね?

弟子2
弟子2

なるほど。

反対に、いずれ無くなるから、はじめから「無い」のと一緒じゃないかと思ってしまうのも、大切にできなくなるよね。虚無思想っていうんだっけ?

全ては「無」なんだから、何をやっても意味が無い、みたいに……。

弟子1
弟子1

ふーむ。だから、ここにあるけど、いつかなくなる。いつかなくなるけど、ここにある。

弟子2
弟子2

「有」or「無」。そのどちらか一方だけではないって事か~

弟子1
弟子1

あたり前の事を当たり前と思うと、大事にしなくなる。

反対に有難い、有難いと特別扱いすると執着してしまう。

弟子2
弟子2

「あたり前」or「有難い」どちらか一方ではない。

弟子1
弟子1

当たり前の事も見方を変えれば有難い事で、どんなに有難いことも当たり前に感じる。これは縁起の話でもしてたね。

弟子2
弟子2

そうか。「内」or「外」、「有」or「無」、「当たり前」or「有難い」。どちらか一方に偏れば偏るほど、もう片方の事実が見えなくなってくるのか……。

弟子1
弟子1

ついでに言うと、「薪をくべる」or「薪をくべない」かと、偏るのも同じことの繰り返しだよねw

弟子2
弟子2

あ、なるほどね。

お釈迦さん
お釈迦さん

「無常・生じ滅する」ということをよく観察すると、こうして、大事なものが見えてくるのではないでしょうか。


補足

  • 出典:雑阿含経巻第12-285,286

(二八五)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊。告諸比丘。我憶宿命未成正覺時。獨一靜處。專精禪思。生如是念。世間難入。所謂若生若老若病若死。若遷若受生。然諸衆生。生老死上及所依。不如實知。我作是念。何法有故生有。何法縁故生有。即正思惟。起無間等知。有有故生有。有縁故生有。復思惟。何法有故有有。何法縁故有有。即正思惟。如實無間等起知。取有故有有。取縁故有有。又作是念。取復何縁何法有故取有。何法縁故取有。即正思惟。如實無間等起知。取法味著。顧念心縛。愛欲増長。彼愛有故取有。愛故縁取。取縁有。有縁生。生縁老病死憂悲惱苦。如是如是。純大苦聚集。諸比丘。於意云何。譬如縁膏油及炷。燈明得燒。數増油炷。彼燈明得久住不。答言。如是世尊。如是諸比丘。於色取味著。顧念愛縛。増長愛縁故取。取縁有。有縁生。生縁老病死憂悲惱苦。如是如是。純大苦聚集。我時復作是念。何法無故。無此老病死。何法滅故。老病死滅。即正思惟。起如實無間等。無生則無老病死。生滅故則老病死滅。復作是念。何法無故無生。何法滅故生滅。即正思惟。起如實無間等。有無故生無。有滅故生滅。又復思惟。何法無故有無。何法滅故有滅。即正思惟。生如實無間等觀。取無故有無。取滅故有滅。又作是念。何法無故取無。何法滅故取滅。即正思惟。生如實無間等觀。所取法無常生滅。離欲滅盡捨離。心不顧念。心不縛著愛則滅。彼愛滅故取滅。取滅故有滅。有滅故生滅。生滅故老病死憂悲惱苦滅。如是如是。純大苦聚滅。諸比丘。於意云何。譬如油炷然燈。若不増油治炷。非彼燈明未來不生盡磨滅耶。比丘白佛。如是世尊。如是諸比丘。於所取法。觀察無常。生滅離欲。滅盡捨離。心不顧念。心不縛著愛則滅。愛滅則取滅。乃至純大苦聚滅。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(二八六)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊。告諸比丘。我憶宿命未成正覺時。獨一靜處。專精禪思。如上廣説。差別者。譬如載樵十束二十束三十束四十束五十束百束千束百千束。積聚燒然。作大火聚。若復有人。増其乾草樵薪。諸比丘。於意云何。此火相續。長夜熾然不。比丘白佛言。如是世尊。如是諸比丘。於所取法。味著顧念。心縛著増。其愛縁取。取縁有。乃至純大苦聚集。諸比丘。若彼火聚熾然。不増樵草。諸比丘。於意云何。彼火當滅不。答言。如是世尊。如是諸比丘。於所取法。觀察無常。生滅離欲。滅盡捨離。心不顧念縛著愛則滅。愛滅則取滅。如是廣説乃至。純大苦聚滅。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻79頁c段27行 – 80頁b段23行)

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースより

国訳一切経阿含部1巻282頁

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