本記事は「雑阿含経巻第15-404」の内容を基に作りました。
大事なことは、点と点で考えずに、線や面で見るように心がけなさい。立体に見るよう心がけなさい。隙間なく見るよう心がけなさい。
大林の木々に隙間なく生い茂る葉の如く学ぶ
今日はあの林に行きましょうか。
この林の木は、シッソの木ですかね。
ヨウラクボクの木じゃないないかな。
そこの木の下で坐りましょうか。
はい。
お釈迦さん。その手に持っているものは何ですか?
この木になっていた葉っぱの一つですよ。
皆さん。私の手の中にある葉っぱは多いと思いますか?
それとも、この大きな林にある木々の葉の方が多いと思いますか?
当然、この林の木々になっている葉っぱの方がたくさんありますよ。
お釈迦さんの手に持っている葉っぱなんて、ごくわずかなものです。
何百倍、いや、何千倍、何万倍、何億倍、それ以上の違いでしょうか……。
計算できるものじゃありませんよ(笑)
比べ物にならないですね(笑)
まさにこれと同じようなものですね。
何がですか?
私が皆さんに「伝えてきた事(言葉にして説いてきた事)」は、この手の中にある葉っぱのようなものです。
私の「伝えたい事(仏法)」は、この大林の木々の葉のようなものです。
まだまだ、言葉にできないものがたくさんあります。
ならば、その言葉にしていない事を、私達にもっと示してください。
それはできません。仮に今、あなたにその言葉を伝えても、それは何の役にも立たないからです。
それは、私の能力不足ということですか?
そういう意味ではありません。
能力不足ではないなら、何故、言ってくれないのですか?
今のあなた方にとって、その言葉は役に立たない。場合によっては、その道を逆方向へと向かわせてしまうからです。
どういうことですか?
仏法について語る言葉ならば、どんなことでも役に立たない事はないと思います。
もし、私が伝えた事、例えば、四諦についても、それらが未だに点と点のままならば、その点と点が隙間なく、つながるように学んで下さい。
お釈迦さんの「伝えた事」、その言の葉が、一枚一枚の葉としてバラバラで、私達の中でつながっていないという事なのでしょうか。
同じ仏法について語る言の葉なのに、場合によっては、その言の葉が、私達の歩みを逆方向へと向かわせる……。
同じ仏法を指し示している言葉なのに、その指し示す方向が言葉によって違うってことですか。
その話、どこかで聞いたような……。ああ!
「月指のたとえ」か!?
どうぞ、大林の木々に隙間なく生い茂る葉の如く、学んで下さい。
補足情報
隙間なく見るにはどうしたらいいのさ!?
あれ? 私達はすでに、隙間ない世界を生きているじゃないか。
- 出典:雑阿含経巻第15-404
如是我聞。一時佛在摩竭國人間遊行。王舍城波羅利弗。是中間竹林聚落大王。於中作福徳舍。爾時世尊。與諸大衆。於中止宿。爾時世尊告諸比丘。汝等當行共至申恕林。爾時世尊。與諸大衆。到申恕林。坐樹下。爾時世尊。手把樹葉。告諸比丘。此手中葉爲多耶。大林樹葉爲多。比丘白佛。世尊。手中樹葉甚少。彼大林中樹葉無量。百千億萬倍。乃至算數譬類不可爲比。如是諸比丘。我成等正覺。自所見法。爲人定説者。如手中樹葉。所以者何。彼法義饒益。法饒益。梵行饒益。明慧正覺。向於涅槃。如大林樹葉。如我成等正覺。自知正法。所不説者。亦復如是。所以者何。彼法非義饒益。非法饒益。非梵行饒益。明慧正覺。正向涅槃故。是故。諸比丘。於四聖諦。未無間等者。當勤方便起増上欲。學無間等。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻108頁a段24行-b段12行)
国訳一切経阿含部2巻25頁
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