私達人間には、避けられない苦しみがあります。例えば、老い、病気、死。生きていく中でも、大切な人との別れや偶然の事故など、避けられない苦しみがあります。
お釈迦さんは、その避けられない苦しみに気づいた時の様子をこのように述べています。
お釈迦さんは、苦しみを解決したいと決意し、今までの身分を捨てて、家を出る決意をしました。いわゆる出家です。
ではお釈迦さんは出家後、具体的にどのような事をしていたのでしょうか?
今回はお釈迦さんの出家~成道(菩提樹での一件)までの足跡についてまとめました。(※今回講話で扱った経典の抜粋はこちら)
お釈迦さんの出家後の足跡
お釈迦さんが出家したのは、29歳の頃(今回の経典には29歳とあるが、19歳という説もある)と言われています。
もちろん、お釈迦さんが出家したこの時点で「仏教」と呼ばれるものがあったわけではありません。つまり出家とは、仏教が生まれる以前からインドで行われていたことなのです。
出家とは?
出家とは、諸法を巡り歩きながら様々な経験を積むことです。様々なところを巡り歩くわけですから、定住する場所はありません。よって今までのような家庭生活をすることはできません。
出家というと①家庭生活を捨てて、②様々な経験を積む為の生活に入るという順序のようなイメージですが、私はこれはむしろ逆ではないかと考えます。様々な経験を積みたい、道を求める為に家を飛び出すと考えた方がしっくりきます。
インドでは、バラモン教と呼ばれる宗教がありました。このバラモン教を中心とした考え方が古代インドでは常識でした。しかし、この伝統的な権威に囚われない自由な思想家達が現れました。彼らは沙門と呼ばれています。
彼らはそれぞれ、道を求め、学び、修行していました。哲学的思索、修行、果ては苦行まで、その探求は多岐にわたります。各地にいる著名な沙門に学ぶ為には、各地を巡るしかありません。
よって一か所に定住し、既成概念の中で行われている今までの家庭生活から飛び出したというわけです。
そしてお釈迦さんもそんな沙門の一人だったというわけです。
出家=苦行ではない
お釈迦さんの出家後の話をすると、よく「お釈迦さんは出家後に苦行して悟ったのでしょう」と言わることがあります。しかし、それは誤解です。
確かにお釈迦さんは苦行も試みましたが、「これは苦しいだけで役に立たない」と苦行を捨てました。苦行を捨てたことは良かったとのお釈迦さんの見解が記された経典もあります。
苦行は当時のインドの沙門の間である程度認知度があった実践方法のひとつでした。しかし当時、インドの沙門が行っていたことは何も苦行だけではありません。経典で残っている記録の中だけでもお釈迦さんは様々な所に行っています。
洞窟、森、墓地など、そういった場所で過ごしていた事があります。そこには師事しようと考えた思想家がいたからかもしれません。お釈迦さんも出家後は、各地を巡って学んでいたのです。
出家後にお釈迦さんが師事した二人の思想家
現にお釈迦さんは二人の思想家に師事しました。アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという人物です。
まずお釈迦さんはアーラーラ・カーラーマの下で学びました。そしてアーラーラ・カーラーマからの認可を得ました。「これからは先生として私と一緒に他の人達を指導してほしい」といわれましたが、お釈迦さんは断ります。
お釈迦さんが望んだ苦しみの解決に至らなかったからです。
それは、次に訪れたウッダカ・ラーマプッタの下でも、同様でした。
彼ら二人が具体的にどのような実践を行っていたかわかりませんが、この経典では「無所有處」「非有想非無想」と記されています。
お釈迦さんが望んだ苦しみの解決には至らなかったわけですが、私はこの師事をした二人の考えを切り捨てたというわけではなく、参考にはなったがお釈迦さんの抱えている苦しみの全てを解決するには至らなかったというぐらいだと考えます。
その理由としては、お釈迦さんが、菩提樹の下での一件(いわゆる悟りを開いたと言われる所)の後、この二人の下に自分の考えを伝えに行こうと考えたからです。
残念ながら二人はその時すでに亡くなっていましたが、きっとあの二人なら自分の至った考えを理解してもらうと思ったぐらい、お釈迦さんはこの二人と関係を大切に思っていたのだと思います。
ちなみに講話会では、この「無所有處」「非有想非無想」について、十牛図を用いてお話をしました。あくまでも私がこの文字列からこういう話だったのかもしれないという想像ではあります。
この二人の下を離れた後は、この経典では、次の話がもうネーランジャラー河(尼連禅河)のほとりの菩提樹の下(現在はブッダガヤーと称される、地図②)での出来事へと話が移っています。
これが今回の経典で記されている出家後のお釈迦さんの経緯です。
一般的に言われている苦行の話などは、今回の経典に限って言えば、語っていないんですよね。
おそらく他の経典と照らし合わせると、苦行をしたことも事実です。しかしお釈迦さんにとって苦行の一件は、この経典のように、場合によっては話題にあげないこともあるぐらいのことだったのかもしれません。少なくてもここでは要点になっていません。
二人に師事した後の事を含めた経緯は、以下の記事でまとめています。
補足情報
我時年少童子清淨青髮。盛年年二十九。爾時極多樂戲莊飾遊行。我於爾時父母啼哭諸親不樂。我剃除鬚髮著袈裟衣。至信捨家無家學道。護身命清淨。護口意命清淨。我成就此戒身已。欲求無病無上安隱涅槃無老無死。無愁憂慼。無穢汚無上安隱涅槃故。更往阿羅羅伽羅摩所。問曰。阿羅羅。我欲於汝法行梵行爲可爾不。阿羅羅答我曰。賢者。我無不可。汝欲行便行。我復問曰。阿羅羅。云何汝此法自知自覺自作證耶。阿羅羅答我曰。賢者。我度一切識處。得無所有處成就遊。是故我法自知自覺自作證。我復作是念。不但阿羅羅獨有此信。我亦有此信。不但阿羅羅獨有此精進。我亦有此精進。不但阿羅羅獨有此慧。我亦有此慧。阿羅羅於此法自知自覺自作證。我欲證此法故便獨住遠離空安靖處。心無放逸修行精勤。我獨住遠離空安*靖處。心無放逸修行精勤已。不久得證彼法。證彼法已。復往詣阿羅羅加羅摩所。問曰。阿羅羅。此法自知自覺自作證。謂度一切無量識處。得無所有處成就遊耶。阿羅羅伽羅摩答我曰。賢者。我是法自知自覺自作證。謂度無量識處。得無所有處成就遊。阿羅羅*伽羅摩復語我曰。賢者。是爲如我此法作證汝亦然。如汝此法作證我亦然。賢者。汝來共領此衆。是爲阿羅羅*伽羅摩師處我與同等。最上恭敬最上供養最上歡喜。我復作是念。此法不趣智。不趣覺。不趣涅槃。我今寧可捨此法更求無病無上安隱涅槃。求無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃。我即捨此法。便求無病無上安隱涅槃。求無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃已。往詣欝陀羅羅摩子所。問曰。欝陀羅。我欲於汝法中學。爲可爾不。欝陀羅羅摩子答我曰。賢者。我無不可汝欲學便學。我復問曰。欝陀羅。汝羅摩子。自知自覺自作證何等法耶。欝陀羅羅摩子答我曰。賢者。度一切無所有處。得非有想非無想處成就遊。賢者我父羅摩。自知自覺自作證。謂此法也。我復作是念。不但羅摩獨有此信。我亦有此信。不但羅摩獨有此精進。我亦有此精進。不但羅摩獨有此慧。我亦有此慧。羅摩自知自覺自作證此法。我何故不得自知自覺自作證此法耶。我欲證此法故便獨住遠離空安*靖處。心無放逸修行精勤。我獨住遠離空安*靖處。心無放逸修行精勤已。不久得證彼法。證彼法已。復往欝陀羅羅摩子所。問曰。欝陀羅。汝父羅摩。是法自知自覺自作證。謂度一切無所有處。得非有想非無想處成就遊耶。欝陀羅羅摩子答我曰。賢者。我父羅摩。是法自知自覺自作證。謂度一切無所有處。得非有想非無想處成就遊。欝陀羅復語我曰。如我父羅摩此法作證。汝亦然。如汝此法作證我父亦然。賢者。汝來共領此衆。欝陀羅羅摩子同師處我亦如師。最上恭敬最上供養最上歡喜。我復作是念。此法不趣智。不趣覺。不趣涅槃。我今寧可捨此法更求無病無上安隱涅槃。求無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃。我即捨此法。便求無病無上安隱涅槃。求無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃已。往象頂山南欝鞞羅梵志村名曰斯那於彼中地至可愛樂。山林欝茂。尼連禪河清流盈岸。我見彼已便作是念。此地至可愛樂。山林欝茂。尼連禪河清流盈岸。若族姓子欲有學者可於中學我亦當學。我今寧可於此中學。即便持草往詣覺樹。到已。布下敷尼師檀結跏趺坐。要不解坐至得漏盡我便不解坐至得漏盡。我求無病無上安隱涅槃。便得無病無上安隱涅槃。求無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃。便得無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃。生知生見。定道品法。生已盡梵行已立。所作已辦不更受有知如眞。
(大正No.26, 1巻776頁b段1行 – 777頁a段18行)
十牛図
「自己とは何か?」「あるいは仏・法とは何か?」を考える時の様子を絵にしたものです。
- 尋牛(じんぎゅう)
- 見跡(けんぜき/けんせき)
- 見牛(けんぎゅう)
- 得牛(とくぎゅう)
- 牧牛(ぼくぎゅう)
- 騎牛帰家(きぎゅうきか)
- 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)
- 無所有處
- 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)
- 非有想非無想
- 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
- 入鄽垂手(にってんすいしゅ)
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