お釈迦さんの出家の動機について/四門出遊の伝説|禅僧の「中阿含柔軟経」講話メモ②

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今回は「お釈迦さんが生まれと出家の動機」のことを中心にまとめました。

「中阿含柔軟経」は以下に意訳した記事を掲載しています。(仏教エピソード)

仏教エピソード③「お釈迦さんの青年時代」
「仏教ってどんな教えなの?」その答えは「お釈迦さんはなぜ出家したのか」を考えれば自然と見えてきます。

前回の記事でも述べたように、実はお釈迦さんが出家する以前の話というのは、初期の経典内ではあまり語られていません。

お釈迦さんが出家する以前の話として有名な話、例えば、四門出遊の話も、後々作られた伝説上の話だったりします。

出家の動機

お釈迦さんは釈迦族での恵まれた生活を捨てて、出家しました。出家した動機は「苦しみがある」事に気づき、その苦しみを解決したいと願ったからでした。

その出家した動機を語った部分がこちらです。

仏教エピソード③「お釈迦さんの青年時代」
「仏教ってどんな教えなの?」その答えは「お釈迦さんはなぜ出家したのか」を考えれば自然と見えてきます。

おそらく、この話の内容が、後代に「四門出遊(四門遊観)」という話が作られたのだろうと思います。

四門出遊はどんな話?

まだ出家する前、王族であったお釈迦さんがお城で過ごしていた時、お釈迦さんは城のある都から外出することになりました。

都には、東西南北と四つの門があります。

まず最初に都から外出した際に、東の門を使いました。外に出るとそこには、年老いた人たちがいました。

初めて見た老人の姿。思うように体が動かず、辛そうな彼らを見たお釈迦さんは、共についてきたお付きの者に尋ねました。そこでお釈迦さんは、人は老い、そして自分を老いることを知りました。

そして次に都から外出した際に、西門を使いました。外に出るとそこには、病気の人達がいました。

初めて見た病人の姿。苦しいそうにもがく彼らを見たお釈迦さんは、共についてきたお付きの者に尋ねました。そこでお釈迦さんは、人は病気になり、そして自分も病気になることを知りました。

そして次に都から外出した際、南門を使いました。外に出るとそこには、多くの遺体がありました。

初めて見た遺体の姿。思わず眼をそむけたくなった光景を目の当たりにしたお釈迦さんは、共についてきたお付き者に尋ねました。そこでお釈迦さんは、人は死に、そして自分も死ぬことを知りました。

そして次に都から外出した際に、北門を使いました。外に出るとそこには、出家者(修行者)の姿がありました。

初めて見た出家者の姿。今までの光景はどれもお釈迦さんの心に深く感じることがありましたが、出家者のそれは、他の出来事とはどこか違いました。そしてお釈迦さんは「私もいずれ出家しよう」と決意したのでした。


大分大雑把に書いていますが、以上が四門出遊の話です。

こうして改めて見ると、四門出遊の話の方が、形式としてまとまっていますし、覚えやすい構成になっているように思えますね。

ところで、この東西南北の門は実際にあったのでしょうか?

そもそも、お釈迦さんは実際の所、どんな場所に住んでいたのでしょうか?

現在では、お釈迦さんはカピラヴァスツという場所で青年時代を過ごしていただろうと推測されています。

このカピラヴァスツはお釈迦さんの国の釈迦国の都です。ただ釈迦国という国もよくよく調べると、私達が認識している国という単位ともう少し違う形だったのかもしれません。

当時の釈迦国や周辺国について

お釈迦さんは約2500年前、古代インドの時代に生まれました。この頃のインドには大小様々な国がありました。

コーサラ国やマガダ国、カーシー国といった国は、比較的大きな国でしたが、お釈迦さんの生まれた釈迦国は小さな国でした。

お釈迦さんは釈迦国の王子として生まれたといわれています。ただし、王族といっても私達が想像する王子とは少しイメージが違うかもしれません。

どちらかというと、日本でいう古墳時代の頃の豪族をイメージに近かったようです。

当時小さな国である釈迦国は、コーサラ国(①)の属国という立場にありました。その中のある一定の地域で、土地や財産・私兵をもった釈迦族が治める地、それを釈迦国と呼んでいました。

当時釈迦族という一族の長を務めていたのが、お釈迦さんの父であるスッドーダナ(浄飯じょうばん)でした。お釈迦さんはスットーダナとマーヤー(摩耶まや)夫人の間に生まれました。

①ルンビニーという場所でお釈迦さんを出産しましたが、お釈迦さんが生まれてすぐ母親は亡くなってしまいました。

釈迦国の中心地区は、⑤カピラヴァッツという所で、お釈迦さんもここで育ちました。ちなみにカピラヴァッツのヴァッツというのは、地区という意味であることからも、国としての規模(単位)を推察できます。

カピラヴァスツという場所も今では存在していないので、詳しい事はよく分かっていないようです。つまり四つの門があったかどうかもわからないということです。

ただお釈迦さんはスットーダナの後継者として、当時の他の人達と比べても、恵まれた生活を送っていたのだろうと思われます。

その恵まれた生活の中でも「苦しみがある」ということにお釈迦さんは気が付きます。「老・病・死」これらは人が人である以上、決して逃れられない苦しみです。

おそらく、この話が後に出家の動機を語った有名な逸話、四門出遊の話のもとになったのだと考えられます。

 

 

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