お釈迦さんの出家の動機については以前以下の記事にも書きました。
「老・病・死などの避けられない苦しみがあることに気づいた」ことが、お釈迦さんにとって出家する大きな動機となりました。
これら避けられない苦しみを解決したくてお釈迦さんは出家したと上記の経典で書かれています。そして今回の経典でも同じように出家の動機について書かれています。
世尊歎曰。善哉善哉。比丘集坐當行二事。一曰説法。二曰默然。所以者何。我亦爲汝説法。諦聽諦聽。善思念之。時諸比丘白曰。唯然當受教聽。佛言。有二種求。一曰聖求。二曰非聖求。云何非聖求。有一實病法求病法。實老法死法愁憂慼法。實穢汚法求穢汚法。云何實病法求病法。云何病法耶。兒子兄弟。是病法也。象馬牛羊奴婢錢財珍寶米穀是病害法。衆生於中觸染貪著。憍驁受入。不見災患。不見出要而取用之。云何老法死法。愁憂慼法。穢汚法耶。兒子兄弟。是穢汚法。象馬牛羊奴婢錢財珍寶米穀。是穢法害法。衆生於中染觸貪著。憍驁受入。不見災患不見出要而取用之。彼人欲求無病無上安隱涅槃。得無病無上安隱涅槃者。終無是處。求無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃。得無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃者。終無是處。是謂非聖求。云何聖求耶。有一作是念。我自實病法。無辜求病法。我自實老法死法。愁憂慼法。穢汚法。無辜求穢汚法。我今寧可求無病無上安隱涅槃。求無老無死。無愁憂慼無穢汚法無上安隱涅槃。彼人便求無病無上安隱涅槃。得無病無上安隱涅槃者。必有是處。求無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃得無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃者。必有是處。我本未覺無上正盡覺時。亦如是念。我自實病法無辜求病法。我自實老法死法愁憂慼法穢汚法無辜求穢汚法。我今寧可求無病無上安隱涅槃。求無老無死無愁憂慼無穢汚無上安隱涅槃耶。
(大正No.26, 1巻775頁c段28行 – 776頁b段1行)
ただし、こちらの経典では少し表現の仕方が異なっています。
「老・病・死などの避けられない苦しみがあることに気づいた」だけでなく、「それらの苦しみの解決の求め方」という点が強調して書かれています。
ここでは「聖求」と「非聖求」という言葉で対比される形で記されています。
苦しみの解決の求め方の違い
聖求と書くと、なんだか大層に聞こえますが、要するに弟子達に対して「このような求め方をしてほしい」というお釈迦さんの考えが述べられています。
「老・病・死などの避けられない苦しみがある」ということは事実です。ただし、この事実の受け止め方は人によって異なります。
例えば、人は病いを知るときは、自分事ではなく、他人事として捉える場合があります。病気になった人を見て「ああ、大変そうだな。病気って辛そうだ。苦しいことだ」と気がつきます。
ただそれと同時に「自分は病気にはなりたくないな」と思ってしまいます。
他人が病んだ姿を見て、自分の事は棚に上げて、「私は病気になりたくない」と厭い嫌うこと。こういう求め方をここでは「非聖求」と称しています。
当然のことですが、この世に病気や怪我にならない人はいません。病気の原因は自分達の周りに常日頃から存在しています。病気になる可能性があるわけですから、その不安が無くなることはありません。
それにも関わらず、病気になりたくないと願い、その病気の原因を見ない。その原因を見ないから対策が考えられない。そして自分も病いとなる。
「そのような求め方はしないでくれよ」とお釈迦さんは弟子達に促しているのです。
お釈迦さんも思い起こしてみれば、苦しみの解決を求めた際に、そのような求め方をしなかった。ならばどのような求め方をしたのでしょうか?
例えば、病いを知るとき、他人ごとではなく、それは自分の身にも起こることなんだと考えることです。
自分の事を棚上げするのではなく、他の人が病気になったのを見ても、自分だってその病気になる可能性があるのです。
病気になることは他人事ではなく、我自身もなることなのです。そしてその病気になってしまうこと自体に罪はありません。誰も何も悪くはないのです。こういう求め方をここでは「聖求」と表現されています。
他者が病気になった姿を見て、「私はああいう風になりたくない」厭い嫌うことはできません。なぜなら、病気になるということは自分を含めて誰の身にでも起こり得ることだからです。
その病気と向き合って、病気の原因を見つめ、対策を考える。そうやって解決の糸口を見出すのです。
「同じ求めるなら、こういう求め方をしてくれよ」とお釈迦さんは弟子達に伝えたかったのでしょう。
苦しみと出会って、それを解決したいと願い求める。その出発点は皆同じです。しかしそれを求めて踏み出した一歩目から何かが違う。ほんの些細なことのように見えますが、結果としてこれは点と地との違いにもなるのかもしれませんね。
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