荒村寺のある伊丹は、夜、煌々と明かりがついている。だから、生まれてこの方、月明りなんて気にしたことがなかった。
私が月の明るさを知ったのは、アメリカの禅センターでの事。
その禅センターは山の奥のそのまた奥、まさに人里離れた場所にある。
坐禅堂と僧堂(寝床)が別々の建物で、徒歩で2分ほどだが、山道を行き来しなければならない。
私がその禅センターに滞在したのは、一ヶ月余りだが、初めのうちは、坐禅を終え、僧堂へ戻る道に、何の不安を感じなかった。
何故なら、夜になっても、薄っすらと木々が見えるほどの視界があったからだ。自分が今どの場所にいて、どこへ向かえばいいのか、目に見えてわかる。
しかし、ある日、いつも通りに坐禅堂を出ると、辺りは真っ暗で、本当に何も見えないほどの暗闇だった。そう、新月の夜だ。
とはいえ、僧堂(寝床)に向かわないわけにはいかない。私は、建物のあるはずの方角へと足を進めた。
真っ暗闇の中、少しずつ小さくなっていく坐禅堂付近の明かりを背に、ゆっくりと歩いた。
目の前に何があるかわからない不安の中、私は自然と手を前にして進んだ。
不意に手に何かがあたる。感触からして木だろう。そうやって木々を避けながら、なんとかして、僧堂(寝床)へとたどり着いた。
それからというもの、夜の坐禅の際には、懐中電灯を持つようになったが、それが必要だと感じた日はあまりなかった。
月が辺りを薄っすらと照らす、その明るさがすぐに戻ってきたからだ。
真っ暗闇を観たからこそ、暗闇の不安の中を優しく照らす月、そしてその有難さと美しさを、私は初めて知った。
コメント