心が安定するのが安心(あんじん)

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仏教には安心あんじんという言葉がある。

誤解のないように繰り返すが、安心と書いて、あんんと読む。(以下、<安心(あんじん)>)

一方で、私達が一般的に使うのは、安心(あんしん)と読む。(以下、「安心(あんしん)」)

何故、仏教では、「安心(あんしん)」ではなく、<安心(あんじん)>なのだろうか?

「安心(あんしん)」と<安心(あんじん)>の違い

辞書や書物に、「安心(あんしん)」と<安心(あんじん)>という言葉に、明確な違いは書かれていない。

それは、仏教書、仏教辞典でも同じである。

違いと言えば、読み方だけ。しかし、私はそこに大きな違いがあると考える。

「安心(あんしん)」とは?

安心な時は、不安を感じるだろうか?

おそらく、「NO」と答える人が多いだろう。

一般的に、安心を感じる時は、不安がない時だと考える。

不安がないから、安心できると考えるはずだ。

このように「不安が無い=安心である」と思っていることが、「安心(あんしん)」ということなのだ。

苦しみはある。不安はある。

仏教では、苦しみはあるものだと考える。

この苦しみには様々なものがあるが、よく例として挙がるのが、老い、病い、死だ。

例えば、病気という苦しみがある。自分が病気であるかないかに関わらず、世の中には、病気がある。病気そのものは、決してなくならない。

つまり、病気のリスク、病気への不安は、常日頃からあるわけだ。

病気への不安というものは、常日頃からあるにもかかわらず、私達は、その事実にあまり関心を示さない。

常日頃からあるはずの不安に向き合わず、或いはふたをしたり、目をそらしたり、気にしなかったり、重大に考えなかったり、まるでその不安が無いように考えてしまう。

そして、その不安が無いことが、「安心(あんしん)」だと感じている。

しかし、実際には、病気は常日頃からあるわけだから、その不安は、常に日頃からあるはずなのだ。

<安心(あんじん)>とは?

本来、安心するためには、その不安やリスクに対して、どのように向き合うかが重要になる。

危機管理も含め、もし万が一、その不安通りのことが起った際に、どのように動けばいいのか、そのためにどういう心づもりをしておくのか……など。リスクや不安に対する備えがあることで、本当の意味で私達は安心できる。

もし、万が一の際に、どうするのか。予め考え、そのリスクに対して、指針や対策があることが安心に繋がる。

その為にはまず、不安やリスクに正面から向き合う必要がある。その不安やリスクについて、よく考えるからこそ、その対応策や行動基準を考える事ができるわけだ。

この場合、不安と安心はコインの裏表のような関係となる。不安は、安心を見出すための糸口ともなるわけだ。

このように「不安がある=安心につながる」ということが、私は<安心(あんじん)>だと考える。


「不安が無い=安心である」ということは、言い換えれば、「不安≠安心」である。

「不安≠安心」が安心と思っている場合、この「安心(あんしん)」は、大抵、楽観的、もっと言えば、油断だと私は考える。

なぜなら、常日頃からあるはずの不安、あるいはリスクに対して、正面から向き合っていないからである。

不安は、決してなくなることはない。病気が世界から根絶されることがないように。

それでも、不安が無いと感じるのは、感じないようにしていたり、目をそらしていたり……。実際に無くなったわけではなく、何らかの形で、自分の中で無かったことにしているわけだ。

本来あるはずのリスクや不安。それが無いことになっている。それは、油断につながってしまう。

本来は、そのリスクや不安に対して、万全の体勢がとれるようにすることが、安心へとつながるはずなのに。その為には、リスクや不安を無いことにはできない。

こうして不安を見つめることが安心へと繋がる。

「不安=安心」となってこそ、<安心(あんじん)>となるわけだ。

もっとわかりやすくいうならば、例えばシーソーをイメージしてほしい。

自分の心が、不安な時、安心が無くなる。反対に安心がある時は、不安が無くなる。これはとてもアンバランスで安定しない。

しかし、不安は、事実、常日頃からある。

不安があっても、それが安心につながり、安心がありながらも、不安を見つめる。

不安と安心が共にある。こういう時は、とてもバランスがよく、安定感がある。

こうして、心が安定することこそが、私は<安心(あんじん)>だと考える。

わざわざ、仏教の言葉として、<安心(あんじん)>という言葉が残っているのは、こういう違いがあるからなのかもしれません。

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