聞こえているのに聴いていない音

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温かくなってきてました。うちの番犬 “ちゃも” も、のんびり、ひなたぼっこしています。

ただ、動画を観てもらえばわかりますが、近くで工事がはじまり、結構な音がしていますね。

「よくこんなにうるさい中で眠れるなぁ」と思う人もいるかもしれません。

しかし、”ちゃも”は全く気にする様子もなく、気持ちよさそうにしています。

実は、私も動画を撮っていた最中、それほど、工事の音は気になりませんでした。

動画を再生してみてはじめて、これほど音が入っていた事にびっくりしたほどです。

生き物の「聞く」能力

生き物の聞くという能力は、実によくできています。

私達の周りは、自分が思っている以上に、たくさんの音に囲まれています。

しかし、私達はその音の全てを認識していません。気づいていません。

これは、簡単に言えば、私達の耳が、無意識のうちに、自分の中で、必要な音と不必要な音を聞き分けているからです。実際には、耳ではなくて、脳らしいですが。

事実、私達の身の回りにある音がそっくりそのまま聞こえてしまうと、支障をきたしてしまいます。

例)補聴器

例えば、「補聴器はうるさくて、せっかく買ったけど結局使ってない」というお話をよく聞くことがあります。これがわかりやすい例でしょうか。

人の話を聴きたいのに、まわりの車の音、あるいは、換気扇やクーラーなどの空調の音など、余計な音が聞こえて不快だと聞きます。

補聴器は、必要な音と不必要な音を選びません。不必要な音であろうが、必要な音であろうが、分け隔てなく、同じように音として、平等にそのまま音を拾います。

どの音であろうと、耳元で同じように大音量で聞こえるのを想像すると、たしかに不快に感じるだろう事は、想像に難くありません。

ですので、補聴器は買って終わりではなく、買った後が大事。

私達が本来持ち合わせている、聞き分ける能力に近づけるため、本人に合った調整を、こまめにすることが何より大切なのだそうです。

無意識に聞き分ける力

さて、私達の聞くという能力には、無意識に、いわば、自動的に、必要な音と不必要な音を聞き分ける能力があります。

自分の周りに数多に存在する音の中から、自分に必要な音を選び取っています。そして、私達は、日頃からこの聞き分ける能力に支えられて生きています。

例えば、会話ができるのも、この能力のおかげです。必要な音だけを拾い、認識しています。おかげさまで、人の話を聴くことができるのです。

講義などで、人の話を聴く際に、普段から音を発しているはずの空調の音や時計の秒針の音が聞こえないのは、このためです。

無意識のうちにこの聞き分けを行っているのですから、すごいですよね。人体の不思議です。

おかげで、私達は余計な音(情報)に惑わされることなく、瞬時に必要な音を認識、判断し、行動することができるのです。

しかし、この能力。裏を返せば、私達は、聞こえているのに、聴いていない音があることを示唆しています。

実際に、聞こえているつもりでも、無意識のうちに、認識の外側に漏れている音があるということです。

それに、何を必要とし、何を不必要と感じるは、その時、その場所、その人によって、異なります。

同じ時間、同じ空間にいたとしても、お互いの認識が違うことがあるということでもありますね。

なんだか、キンスカの木の話を思い起こしますね。(仏教エピソード16話)

ついつい、聞こえている、分かっている気になってしまいますが、人間の人体(脳)の構造上、余すことなく全てを聴く力はないわけです。

更に言えば、何でも、人間の脳は、一度に一つのことしか処理できないようになっているとのこと。どんなに複数のことをやっているようにみえても、それは逐一、切り替えているようです。

坐禅の後の茶話会で、参禅者の皆さんに、皆さんの感じ方は実に色々です。坐禅を無色透明に例えるように。

そんな私たちのあり方が見えてくるのも、私は坐禅の醍醐味の一つとかんがえています。味も色々ですけどね。

私達は慣れるということもあるので、こういった当たり前に自分を支えている色々に気づいていないことも多いのでしょうね。


“ちゃも” も私も、伊丹という地での暮らしで、周りの音に慣れて、気にならなくなっている音がたくさんあるのでしょう。それは、生きていく上で大切な事。

ただ、それによって気づかずに見逃して、また見失うことがあるのかもしれません。それを心得ておくことも、同じく生きていく上で大切な事なのでしょう。

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