お米をたべる。味噌汁を食べる。煮物を食べる。野菜炒めを食べる。焼き魚を食べる。
それらの食材は全て別々のもの。別々の料理を食べて、お腹の中でまぜこぜになる。
まぜこぜどころか、溶け合って、もはやどれがどれかわからない。
そうやって自らの血肉となる。それが消化するということ。
知識もまたそれぞれの食材のようだ。
私達はたくさんの知識を吸収する。吸収するには、消化が必要だ。
消化するということは、お腹の中でたくさんの知識が溶け合う。
そうして、自らの血肉となる。
溶け合うからには、取り込んだものはきれいさっぱりなくなるはず。
それなのに、特定の知識に執着してしまうということは、せっかくお腹の中に入ったのに、消化不良を起こしているようなものではなかろうか。
あるいはそのまえに、好き嫌いをして、口にすら入れないこともあるかもしれない。
それでは、消化はされない。決して自らの身につかない。
その様に考えれば、こうも言える。
消化されたものは、他の人には決してそのまま提供できない。できるはずがない。
だからこそ、さまざまな食材を用い、食べられるように調理する。
出来る限り、おいしく調理をしていく。文字通り、理を調えるわけだ。
食べることそれ自体、もちろん悦びである。
そしてまた、食べてもらうことも悦びである。
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