【中道を考える】「真ん中をとる」ではない

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中道とは、仏教の基本となる教えの一つ。簡単にいえば、中道とは二つの極端な道に偏らないことです。(仏教エピソードでも取り上げています)

そして、この中道の教えは、良く勘違いされます。

「偏らなければいいのであれば、真ん中を進めばいい。つまり中道とは、なんでも真ん中をとるということでしょう?」と。

これは誤解です。中道は、真ん中をとるということではありません。

では、どのように考えたらいいのでしょう?

それを言葉で説明するのに、私も試行錯誤しているわけですが、今回は私が海外の禅センターで経験した出来事を例にして考えてみましょう。(禅センターについてはこちら

中道の道。道の真ん中ばかり進めない。

これは、私が陽光寺禅マウンテンセンターに滞在していた時の話です。

数日後に禅センターに多くの来訪者を受け入れる予定があり、禅センターにいる皆がその準備をしていました。

私が任された仕事は、滞在者が寝泊りするための部屋を準備すること。いわゆる、ベットメイキングと部屋の清掃ですね。

イメージが伝わりにくいと思うので、参考までに当時の写真を。

私は、こちらの禅センターでは、日頃から掃除などが主な仕事でした。

ただし、多くの来訪者が来ることが稀な為、普段は使わない建物や部屋にも、寝具を運ばなければなりませんでした。(ベットだけは置いてあります)

普段、掛布団やシーツなどを収納している部屋から、別の建物まで布団を運ぶわけですが、禅センターがあるのは、山の中です。

敷地も広いため、建物から建物までもある程度距離がある上に、私は布団を持って、山道をのぼらなければなりませんでした。

しかし、さすがに山道を何度も登り下りするのは、辛い。できれば往復する回数は極力減らしたい……。

そう思った私は、できる限り多くの布団やシーツを背負って、運ぼうとしました。

往復する度に「まだいける。まだいける」と運ぶ量が増えていきます。

そして、何往復目の時か……。自分が背負っていた布団の一部が崩れてしまいました。

ちょうど後頭部の方に崩れてきたため、かろうじて自分の頭で支えることができましたが、そのまま前屈まえかがみの体勢に。

頭を動かすこともできず、前をみることができない。

視界は地面のみ。

山道は舗装されているわけではないので、降ろして整え直すこともできず……。

でも、やってしまったことは仕方がない。私は、そのままの態勢で、運ぶことにしました。

一歩一歩、まっすぐ歩いているつもり……だったのですが、しばらく歩くと、前屈みになった視界には、土色みちではなく、緑色くさが……。

上記の写真をみても分かる通り、道を外れたら、その先は崖……なんてこともありえます。

私は、草の緑色が見える度に、少しずつ進行方向を変えました。

右に草が見えたら、少し左側に気持ち寄っていく。

左に草が見えたら、少し右側に気落ち寄っていく。

「この辺りが道の真ん中あたりかなぁ」と思って進んでいても、まっすぐ進んでいるつもりでも、いつの間にか、視界の中には、草の緑が入ってきます。

もちろん、障害物(といっても、小さな岩や石ですが)があれば、それを避けなければなりません。

道の真ん中を歩けば、安全であることは分かりきっていることですが、まっすぐ歩こうにも、まっすぐ真ん中を歩くことは不可能でした。

ただ、まっすぐ歩かずとも、私は道を外れることはありませんでした。

なぜなら、道の端っこに近づけば近づくほど、緑色の草がはっきり見えて、道の端っこを教えてくれるからです。

端っこになればなるほど、偏れば偏る程、はっきりと分かりやすい。

しかし、どこが真ん中かは、実際の所、わからない。

「中道の教えにも同じことが言えるのではないか」と、なんとか布団の運びながら考えていた私でした。

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