本日の質問
- 般若心経の中で「度一切苦厄」があるが、鳩摩羅什の翻訳されたもの以降から追加されたものと聞いたのですが?
質問については、まず前提としてある程度の知識がないと話についてこられないと思いました。
ということで、本記事では、質問に応える前にざっとお話した般若心経の知識面を軸に書かせてもらいます。
般若心経について
まず、般若心経というお経がどういったお経か、簡単に説明します。
写経会の時に「お経って何?」という参考資料が置いているのはご存知でしょうか。よければ今度観てください。
私はその中で般若心経についてこのような紹介をしています。
『摩訶般若波羅蜜多心経』
般若心経とも呼ばれ、私達日本人には、最も馴染みの深いお経かと思います。
「般若」はパンニャーの音写で「智慧」。「波羅蜜多」は、パーラミターの音写で「完成」「成就」、または、「悟りの岸(彼岸)」を意味します。
「心」は、核心や心髄といった意味を持ちます。そして、仏の智慧の心髄が込められているということで、経題の上に「大いなる」という意味の「摩訶」という語句を冠しています。
私達がよく見る般若心経は唐の玄奘三蔵、私達の良く知る名で三蔵法師と呼ぶ僧侶による翻訳です。
彼は十八年の歳月をかけてインドで仏教を研究しました。そして数多くの経典を伝え翻訳しました。
三蔵法師も登場する孫悟空で有名な『西遊記』は、彼が実際にインドと中国の間を旅した旅行記『大唐西域記』が元になっています。
玄奘が最晩年に訳した『大般若経』は全600巻、文字数にして500万字の経典です。
荒村寺でも毎年1月13日に行われる「大般若祈祷会」において、扇のように広げられている経典がこの大般若経です。
実はこの膨大な量の大般若経も、大乗経典の先駆けとなった『般若経』の一部です。
この般若経に説かれる内容を「空」という核心(ex.色即是空)に凝縮したものが、この300文字足らずで書かれた摩訶般若波羅蜜多心経なのです。
般若心経の翻訳ってどういうこと?
上記のマーカー部分にもあるように、私達が良く見る般若心経は、玄奘(げんじょう)という方の翻訳です。そして翻訳者は玄奘さんだけではありません。他にもたくさんいます。
上記の質問で出てきた鳩摩羅什(くまらじゅう)さんもその一人です。
「翻訳???」という方もおられるかもしれませんが、般若心経は最初から漢文で書かれていたわけではありません。漢文に翻訳される前の原本、つまり違う言語で書かれたものがあります。
平易に言えば、インドの言葉と言った方がわかりやすいでしょうか。厳密に言えば、サンスクリット語という言語です。よく似た言葉にパーリ語もあります。
サンスクリット語は公用語、パーリ語は口語(話し言葉)。簡単に言えばそういう違いがあると私は習いました。
今では、サンスクリット語から日本語に翻訳されている文献もあります。
これは、私が以前、講義の際に資料として頂いたものの一部です。著者は渡辺章吾先生。
サンスクリット語とその日本語訳が書かれています。これは般若心経の以下の部分に該当します。
觀自在菩薩(觀自在菩薩が)
行深般若波羅蜜多時(深く般若波羅蜜多を行じし時)
照見五蘊皆空(五蘊は皆くであると照見し)
度一切苦厄(一切の苦厄を度した)
舍利子
一番最初の出だしの部分ですね。
上記の二つを見比べてもらうとわかりやすいと思いますが、「度一切苦厄」に該当する部分がありません。
実際にサンスクリットの文を見て頂くとわかるのですが、漢文とサンスクリット文の翻訳の違いは、実は「度一切苦厄」の部分だけに限ったものではありません。
ちなみに茶話会の際に話題にあがった英文の般若心経はこちら。
アメリカに行った時にもらったものです。右側が般若心経です。
この他にも別の形に翻訳された英文の般若心経があります。
サンスクリット語、英語とも、現物を観たい方、ご興味ある方は、お声がけください。
茶話会の時に、こういう資料がパソコンのようにワンクリックで出せれば、もっとわかりやすいのでしょうが、それは無理でしょうね……。
とにもかくにも、質問は「”度一切苦厄”の部分がどうして付け足されたのか。サンスクリット仏典では、その翻訳に該当する部分がないのに……」というものだったわけです。
わからない。しかし理解はできるのです。
さて質問の答え、つまり理由なのですが、正直、私にはわかりません。
意訳したという説や翻訳元の本文が違うものを扱っていたなど、私が学んだ範囲の中でも、いくつか説はあるようです。
他にもいろんな説が出てくるでしょう。しかし、その探求は、学者である先生方にお任せいたします。
私の役目は、その研究成果によって発見した食材を、どのように皆さんに料理(お伝え)するかだと思っていますので。
さて、質問の答えとしては「わからない」というのが正直な所。極論を言えば、実際には翻訳した本人にしかわからない事だと私は考えます。
ただ、わからないからと言って、理解できないかというと、それはNOです。
翻訳作業を経験してみると……
例えば、実際に違う言語を翻訳してみると、翻訳者の気持ちを少しは理解できるのではないでしょうか。
私もいざ挑戦してみると、その作業はとても大変なものです。
荒村寺のWEBサイトに載せている仏教エピソード。これも元々漢文から自分なりに翻訳したものです。
ちなみに「福の道|仏教エピソード第1話」と頑張り屋のアヌルッダさん|仏教エピソード第2話の翻訳前のものはこちらです。
T0125_.02.0718c17: (五)聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨
T0125_.02.0718c18: 園。爾時世尊與無33央數百千萬衆而爲説
T0125_.02.0718c19: 法。爾時阿那律在彼坐上。是時阿那律在
T0125_.02.0718c20: 衆中睡眠。爾時佛見阿那律34睡35眠。便説
T0125_.02.0718c21: 此偈
T0125_.02.0718c22: 36受法快睡眠 意無有錯亂
T0125_.02.0718c23: 賢聖所説法 智者之所樂
T0125_.02.0718c24: 猶如深淵水 澄清無瑕穢
T0125_.02.0718c25: 如是聞法人 清淨心樂受
T0125_.02.0718c26: 亦如大方石 風所不能動
T0125_.02.0718c27: 如是得毀譽 心無有傾動
T0125_.02.0718c28: 是時世尊告阿那律。汝畏王法及畏盜賊
T0125_.02.0718c29: 而作道乎。阿那律報曰不也世尊。佛告阿那
T0125_.02.0719a01: 律。汝何故出家學道。阿那律白佛言。厭患
T0125_.02.0719a02: 此1老病死愁憂苦惱。爲苦所惱故欲捨之。
T0125_.02.0719a03: 是故出家學道。世尊告曰。汝今族姓子。信
T0125_.02.0719a04: 心堅固出家學道。世尊今日躬自説法。云何
T0125_.02.0719a05: 於中睡眠。是時尊者阿那律即從座起偏露
T0125_.02.0719a06: 右肩。長跪叉手白世尊言。自今已後形融體
T0125_.02.0719a07: 爛。終不在如來前坐睡。爾時尊者阿那律
T0125_.02.0719a08: 達曉不眠。然不能除去睡眠。眼根遂損。爾
T0125_.02.0719a09: 時世尊告阿那律曰。勤加精進者。與調戲
T0125_.02.0719a10: 蓋相應。設復懈怠與結相應。汝今所2行當
T0125_.02.0719a11: 處其中。阿那律白佛前。3已在如來前誓。
T0125_.02.0719a12: 今不能復違本要。是時世尊告耆域曰。
T0125_.02.0719a13: 療治阿那律眼根。耆域報曰。若阿那律小睡
T0125_.02.0719a14: 眠者我當治目。世尊4告阿那律曰。汝可
T0125_.02.0719a15: 寢寐。所以然者。一切諸法由食而存非食
T0125_.02.0719a16: 不存。眼者以眠爲食。耳者以聲爲食。鼻者
T0125_.02.0719a17: 以香爲食。舌者以味爲食。身者以細滑爲
T0125_.02.0719a18: 食。意者以法爲食。我今亦説涅槃5有食。
T0125_.02.0719a19: 阿那律白佛言。涅槃者以何6等爲食。佛
T0125_.02.0719a20: 告阿那律。涅槃者以無放逸爲食。乘無放
T0125_.02.0719a21: 逸得至7於無爲。阿那律白佛言。世尊。雖
T0125_.02.0719a22: 言眼者以眠爲食。然我不堪睡眠爾時
T0125_.02.0719a23: 阿那律縫故衣裳。是時眼遂敗壞。而得天
T0125_.02.0719a24: 眼無有瑕穢。是時8阿那律。以凡常之法
T0125_.02.0719a25: 而縫衣裳。不能得使縷通9針孔中。是時
T0125_.02.0719a26: 阿那律便作是念。諸世間得道羅漢當與
T0125_.02.0719a27: 我貫10針。是時世尊以天耳清淨聞此音
T0125_.02.0719a28: 聲。諸世間得道阿羅漢者。當與我貫*針。
T0125_.02.0719a29: 爾時世尊至阿那律所而告之曰。汝持*針
T0125_.02.0719b01: 來吾11與貫之。阿那律白佛言。向所稱説
T0125_.02.0719b02: 者。謂諸世間欲求其福者與12我貫*針。世
T0125_.02.0719b03: 尊告曰。世間求福之人無復過我。如來於
T0125_.02.0719b04: 六法無有厭足。云何爲六。一者施。二者教
T0125_.02.0719b05: 13誡。三者忍。四者法説義説。五者將護衆生。
T0125_.02.0719b06: 六者求無上正眞之道。是14謂阿那律。如來
T0125_.02.0719b07: 於此六法無有厭足。阿那律曰。如來身者
T0125_.02.0719b08: 眞法之身。復欲更求何法。如來15已度生死
T0125_.02.0719b09: 之海。又脱愛著。然今日故16求爲福之17首。
T0125_.02.0719b10: 世尊告曰。如是阿那律。如汝所説。如來亦
T0125_.02.0719b11: 知此六法爲無厭足。若當衆生知罪惡之
T0125_.02.0719b12: 原身口意所行者。終不墮三惡趣。以其衆
T0125_.02.0719b13: 生不知罪惡之原故墜墮三惡趣中。爾時
T0125_.02.0719b14: 世尊便説此偈
T0125_.02.0719b15: 世間所有力 遊在天人中
T0125_.02.0719b16: 福力最爲勝 由福成佛道
T0125_.02.0719b17: 是故阿那律當求方便得此六法。如是諸
T0125_.02.0719b18: 比丘當作是學。爾時諸比丘聞佛所説。歡
T0125_.02.0719b19: 喜奉行
このお経は、大蔵経というお経で、有り難い事に今では、このようにデータベース化されていて、SAT大正新脩大藏經テキストデータベースのサイト上で、誰でも扱うことでできます。
もちろんこれだけではなく、他にもさまざまな参考資料を使いました。
いまでは資料等、豊富にある時代ですが、そもそも昔は参考資料すらない状態なわけですから、翻訳にも相当な労力を要したはずです。
読み手、聞き手の事を考えて
元々、大蔵経では一つの話。しかし、仏教エピソードを書くに際して、論点が二つになってしまうので、前半と後半とに分けました。
ちなみに前半部が第二話の方で、後半部が第一話の方です。
前後を逆にしたのも、論点を分けたのも、読み手に伝えたい事が伝わりやすいと思ったからです。
翻訳といわずとも、もっと身近でいえば、英語の勉強を思い出してもらえればいいでしょうか。
私は厳密な英語の翻訳はできません。正直に苦手です。しかし、生活に必要な日常会話は、正しい文章である必要はありませんでした。
海外留学やアメリカの禅センターに行った時に感じたことですが、相手に伝わりさえすればいいのです。
模範解答ではなく、自分の言葉で、相手に伝わりやすいように工夫するだけです。最悪、文法的に間違っても、正式な意味と違っていてもいいのです。
それは仏教用語を英語にする時に、役に立ちました。
現在、英語で仏教用語はそこまで定着していません。
学術レベルではわかりませんが、少なくとも私が日常会話の中で英語を話す際、仏教用語を話すのにかなり苦労しました。
例えば、「縁起」という仏教用語。日本語でも誤解して広まっていますが、この仏教用語を一つ翻訳するにも一苦労です。
縁りて起こる。単純にいえば原因と結果。それを翻訳すれば「cause & effect」。しかし、それではその奥にある意味は伝わりません。
ですから、「つながり」という意味を含ませて「interdepending」を使いました。
しかし、そうすると、単純な意味でいった「原因と結果」の意味がなくなってしまいます。
こうなるともう、その場の状況に応じて「cause & effect」と「interdepending」を使い分けるしかありません。
また慣れてくると、それだけでなく、辞書を駆使して、他にもいろんな英語を使っていました。
聞き手にわかりやすく伝えるため、試行錯誤した結果、新しい意味を込めた言葉も生まれてきます。
その場限りの言葉なので、「何を言ったか」は忘れてしまいましたが、「どう言ったか」は覚えていますし、その時には確かに伝わったはずです。
経典の言葉も同じように、そうやって、過去何千年の中で、新しい仏教用語が生まれてきたのだと私は考えています。
翻訳という経験をすることで、その葛藤や苦労、感情など、その時自分の中から湧き上がってくるものを感じる。そうして読み手・聞き手の側が、書き手や話し手の事を考える。
私はそれが「理解」なのだと考えています。「共感」といってもいいでしょうか。
読み手と書き手、話し手と聞き手、そこに通じるものが生まれるからこそ、そこに「理解」が生まれる。これが今、私の中にある理解です。
もちろん、それでも答えは分かりませんが。
最後に
「分かる」と「理解」。この二つは同じ意味です。
しかし、少なくともこの記事上での「分かる」と「理解」の意味が違うことが伝わったでしょうか。
言葉とは曖昧なもので、本人の理解によっても言葉のニュアンスは変わります。翻訳者の理解よっても、言葉は変わるでしょう。
今、私が、言葉の「理解」に違う意味を込めたように。
だからこそ、経典を向き合う時は「理解」が大事。
これは、私が経典の文言から教えてもらったことでもあります。
これは経典だけでなく、私達の言葉のやり取りにも表れてくることだと思います。
結局の所、最初の質問に対して私が応えられることは、今の所これが精いっぱいです。
「その翻訳者が一体どんな気持ちで、そのような翻訳にしたのだろうか?」とその問いを持ち続けることが、理解に繋がっていくんじゃないでしょうか。
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