坐禅の時の目線は、どこを見ればいいんですか?

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本日夜坐後の茶話会で、こんな質問がありました。

  1. 坐禅の時の目線は、どこを見ればいいんですか?

坐禅中は、目を開けています。

「瞬きは大丈夫ですよ!」と私は冗談交じりで補足もしますが、坐禅中、目は閉じません。

「目を開けるなら、じゃあどこを見れば?」という話になる方もいらっしゃるのですが、その応えは「別にどこかを見なきゃいけないわけではないですよ」なんです。

坐禅の時の目線は、どこを見ればいいんですか?

別段どこを見るというわけでもありません。

「見るというわけではなく、見えるんですけどね」とお応えしました。

英語でいえば分かり易いかもしれません。

「look」ではなく、「see」ですかね。

見ようとしなくて構いません。ただ見えるだけです。

耳も同じ。

聴くのではなく、聞こえる。

「listen」ではなく、「hear」です。

「where should I look ?」いう質問自体が、坐禅のあり方を狭めている。私はそういう風に思います。

英語は日本語に比べて、意味が厳密に分けられていることが多いと思うのですが、日本語だけでは説明が難しい時に、他の言語があるというのは、また違った見え方をするのにも適しているのではないでしょうか。

「look」見なくてもいい。

目を開けていたら自然に「see」見えます。

まぁ、結果的に楽に目を開けられる所に自然と目線が行くのだとは思いますが。

それぞれご参究ください。

目を開けることについて(追記2018/11/29)

Facebook上のコメントも追記させていただきました。参考にして頂ければ幸いです。

【コメント】

今日もありがとうございました!

実は以前は坐禅中に眼が乾くのでしょうね。眼が痛くてたまらなくなっていました。

無理に半眼にしてたのですが、痛くて痛くて。別の坐禅会でお坊さんに尋ねたら「眼を閉じて良いですよ。無理しないで」と言っていただきました。

今思うとこれもまた『中道』でしょうか。

ちなみに「坐禅前に目薬さしたらどうですか」ともアドバイスを受けたので、この時期はさすようにしています。

【返答】

そうですね。無理矢理は坐禅のあり方から離れてしまうので、その辺は臨機応変ということだと思います。

私も花粉症で、春は普勧坐禅儀に書かれている「鼻息微かに通じ(鼻で自然と呼吸している)」とならない時があります。

それを絶対鼻で呼吸してやるとなると、それこそ違うのではないでしょうか。

同様に目も普勧坐禅儀には「目は須らく常に開くべし」と書かれていますが、ドライアイなど、病気や怪我の場合はしょうがないですよね。

むしろ、そういう自分のあり方と対話していることが大切なのだと私は思います。

茶話会などでもお話したように、「どうして目を開けるのか」や「鼻息微かに通じって何故?(鼻息微かに通じと書かれている理由)」などを参究していく(深めていく)と、自ずと答えは導き出されるのではないでしょうか。

以上

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