智慧如海、仏法の智慧は海の如く、ともいう。
仏教を、学んで、学んで、一つ一つ知識を積み重ねていく。少しずつ、少しずつ、自らの知恵を編み上げていく。
しかし、それでも、わからないことはあるものだ。
勉強すればするほど、知っている事より知らない事のほうが多いと感じる……。
いくら知識を蓄えて、知恵を編み上げていこうにも、そこには必ず隙間ができてしまう。
その隙間だらけの知恵や知識は、さながらザルのようだ。
そのザルの知恵で、海の如く仏法の智慧の水を汲みとろうにも、零れ落ちていってしまう。
それならば、もっとしっかりとした器にしようと、更なる知識を得ようと当然考えるだろう。
しかし、それでも、その隙間は小さくはなっても、埋まる事はない……。
たとえ、そのザルで、幾分かの海水をすくい取れたとしても、それでは決して、大きな海そのものにはならない。
ならば、いっそ「こんなザルなんて壊すべきだ」なんてことを簡単に思いつくが、そんなことできるはずもない。
ザルを壊す、ということは、自分を壊せということ。
今まで編み上げて、生まれてからずっと積み重ねて、培ってきた自分を無くせということだ……。そんなことできっこない。
そうしなければ、大海の如き仏法は理解できないのだろうか……。そんなことはないだろう。
今まで編み上げてきた自分の知恵、知識。これは確かにザルである。しかし、そのザルにも水を満たすことはできる。
そう、そのザルを以て、大海に浸せばいい。たとえ、どんな形のザルであれ、そこに水は満ちるだろう。
ザルはザルのままで、そこに水は満ちていく。決して水をすくいとることはできないけれど、そうやって、大海の水を感じとることはできるだろう。
そもそも、海そのものは、すくい取ることのできるものでもないのでしょう。
ならばそのザルは邪魔なのかといえば、そうではないのかもしれません。
むしろ、ザルがあるからこそ、その小さなザルで、大海のありようを感じられるのかもしれません。
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