これは、イギリス留学中、カンタベリーにいた頃の話です。
私にとってカンタベリーはイギリス留学最初の街でした。慣れないイギリス生活に苦労していた記憶もあります。
当時はイギリス生活にうんざりしていた私ですが、思い返してみると、たくさんの出会いに恵まれていたことに気づかされます。
特に、キリスト教の方々と知り合って、いろいろとお話しを聞きたかった私にとって、教会の方やキリスト教系の大学の学生など、クリスチャンの方と交友関係を築けたのは、本当に幸運だったと思います。
カンタベリーでの留学生活中、キリスト教系の大学に通う学生と知り合い、仲良くなりました。
彼はとても熱心なクリスチャンで、私は彼が開くキリスト教に関する勉強会に定期的に参加していました。
勉強会といっても彼の自宅です。英語ではありますが、彼はキリスト教について一生懸命に語ってくれました。
そして、なんといってもこの会の良い所は、友人同士、率直な意見が言いあえることでした。
クリスチャン学生の勉強会
ある日、その勉強会にて、キリスト教徒である他の学生さんも呼んで、自分がなぜキリスト教徒になったのか、その理由を話してくれる機会がありました。
中でも記憶に残っているのは、神様に病気を救ってもらったという話です。記憶に残っている理由は、その話自体が印象的だったというよりは、その後の議論があったからなのですが。
キリスト教徒の体験談
その時、勉強会に参加している人達は、皆、ほとんど同年代の学生達でした。ただし、キリスト教徒の方もいれば、私のように、キリスト教でない人も参加していました。
何人かのキリスト教徒の学生が、それぞれ自身のキリスト教徒になったきっかけを話してくれました。十人十色、様々な理由があり、私は興味深く聞いていました。
そして、ある一人の女学生が自らの体験を語りました。私もほとんど記憶が曖昧なのですが、彼女はその昔、病気を患っていたとの事でした。
病院に行き、治療を続けたそうですが、完治することはなかったそうです。長い長い闘病生活、いっこうに完治することのない病気。医学だけでは限界を感じた彼女は、お祈りをはじめました。毎日、毎日、一生懸命祈っていたそうです。
そして、彼女は、ある体験をしたと言っていました。それが彼女にとって神様との出会いだったと。それから彼女の容態は快方に向かい始めたとの事でした。
神様はいる? いない?
その話をきいて、キリスト教徒ではない彼がこのように言いました。
「神様なんていないよ」
すると、キリスト教徒の他の学生がこう言いました。
「しかし、治らなかった病気も治ったわけだよ」
そこからは、「神様がいるか、いないか」の議論が続きました。
きっと、日本と違い、議論(ディスカッション)の授業などもあるのでしょう。その議論は、決して言い争いのようなものではありませんでした。
私はこうして率直な意見が言いあえる雰囲気にも感心しながら、その議論を聞いていました。しかし、お互いの主張は平行線をだどりました。
そんな中、その様子を見ていた私にもお鉢が回ってきました。「君はどう思う?」と。
皆の目が一斉に私に向けられました。
私には神様がいるのか、いないのか、私にはわかりません。そこで私が言いました。
「分からない」と。
ただし、わからないから議論の枠の外にいるというわけじゃありません。質問に対して考えることを放棄しているとは思ってほしくありませんでした。
だから、どうして「分からない」なのか、その理由を説明する必要がありました。
そしてその時に、「分からない」の理由を説明する際の用いたのが、仏教の「無記」という話でした。(「無記」については、仏教エピソード第7話「答えない」、第8話「答えない答え」でも触れています)
分からない
神様がいるのか、いないのか。それは私には分かりません。
わからないのではあるのですが、私は、彼女の話を否定したくはありませんでした。
少なくとも私には、本当に苦しい中で出会った、価値観を変えるほどの出来事は、彼女にとってかけがえのない経験だったのだろうと感じました。
たとえ、真偽はわからないとしても、彼女の事を考えると感情の上では理解できる……、いや理解というか、共感といったほうが正しいのでしょうか。
本当に苦しい思いをしている中、出会った救い。それは彼女にとってはどれ程の出来事だったのだろうか。もし自分が同じ立場だったら、どのようの感じるだろうか。どのように考えるだろうか。
同じ人として共感する所は確かにあったのです。
それでは、彼の意見には反対するのかといえば、そうではありません。
病気が治ったということも事実だが、それが神様がいるということには繋がらないという彼の意見も理解できました。
彼の話を聞いていると、理屈として、彼の言っていることは正論だということも、痛いほどよくわかりました。
だから私は彼の意見も否定したくはありませんでした。
彼女の事・情だけに捉われても違う。
彼の理・論だけに捉われても違う。
しかし、彼女の中に神様がいると言えばいるとも言えるし、彼の中に神様がいないと言えばいないとも言える。
いるとも言えない。いないとも言えない。いるとも言える。いないとも言える。
どちらでもないわけではなく、どちらでもいいわけではない。
何より、いるとかいないとか、どっちが正解か不正解なんかに、分けられない話でした。
こんな曖昧なグレーゾーンの話をこの場で、しかも英語でするとは思いもよりませんでした。
しかし皆、耳を傾けてくれました。君の考えを理解したいと真剣に向き合ってくれました。
少なくとも、私が、どうでもいいからわからないと言っているわけではないことを理解してくれたように思います。
こんな分けの分からない話に耳を傾けてくれたからこそ、私も必死に言葉を紡ぎました。
結論はでませんでした。分からないのです。分けられないのです。しかし私は「分からない(分けられない)」の奥深さもまた感じました。
思えばこの時が「分からない(分けられない)」について語りはじめたその第一歩目だったのかもしれません。
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