坐禅の姿勢はどうしたらいいでしょうか?

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今日の茶話会では、こんなお話が出ました。

姿勢はどうしたらいいでしょうか?

「身体(姿勢)が不安定で、それをどうにかしなければと……」

そんな坐禅だったそうです。

「坐禅の姿勢はどうしたらいいでしょうか?」という質問は時々受けるときがあります。

例えば、「結跏趺坐が組みたいのでどうしたらいいでしょうか?」「足が痺れます。どうしたらいいでしょうか?」

これが中々難しい質問です。

別に結跏趺坐はしなくてもいいですし、足が痺れるのは別に悪い事でもありません。

そんな風に私は最初に応えます。

実際の所、坐禅の姿勢に関して語る所は山ほどあるのですが、そもそもの論点はそこではありません。

このような質問や感想の場合「(本来ならこういう坐禅の姿勢をしたいのだけれども)どうやったらいいですか?」という事が背後にあるのだと感じることが多いのです。

つまり、質問者の方の話を聞くとその背後には「自分の理想の姿勢があって、それを目指す」というやり方が定着しきっていることが伝わってきます。

言い換えれば、初めから正解が用意されていて、そこに向かって努力するやり方とも言えるでしょう。

しかし、坐禅に正解はありません。

その時、その場所で感じることは違います。

その坐る時の体調も違えば、怪我をしていることだってあるでしょう。関節や筋肉などの身体の様子。また、坐っている環境、温度や湿度なんかも違うでしょう。

同じ人でも、その時その時で、違うわけです。同じ時、場所で行っていても、人によっても違うわけです。

その様々な違いも坐禅から気づかされることの一つ、大切な事だと私は考えています。

違いというか、それぞれの感じる事、そのあり方といったほうがいいのでしょうか。

自分の想定している答えに近づけることが坐禅ではありません。

坐禅なんて、ただ坐っているだけのことです。ただ坐るだけに、正解も不正解もありません。

ただし、そのただ坐る所に、いろいろと感じることがあるわけです。

足が痛いと思う自分、今日は寒いなと思う自分、ちょっと眠い、寝不足かな、身体が不安定だ、しんどい、かと思えば、他の人は、気持ちよかった、ゆっくりできてよかった、リラックス、いろいろ考えた、などなど。

もちろん、正解を作って頑張ろうとする自分というのもその一つでしょう。

ただ坐るだけなのに、そこにいろいろな自分、そして色々な人の姿、いろいろな坐禅の姿、本当にいろんな色があることに気づくわけです。

だから、初めから「坐禅はこういう色なんだろうな」と答えを用意する必要はありません。

まずはそのことに気づくこと。そうすると、不思議な事に、その色々な事が、自然とどうしたらいいのかと言う事を教えてくれます。

自分の姿勢でいえば「身体が不安定だ」というのも然りです。そう感じたことは深めていくと、どうしたら不安定じゃなくなるかを教えてくれるものでもあります。

痛い、辛い、それには原因があります。その原因を知るには、やはり痛い、辛いを見つめなければいけません。

痛い、辛い、しんどいと感じるのも、それは大事な感覚の一つです。苦も大事な感覚の一つです。

それをちゃんと感じるからこそ、向き合うからこそ、そこから自分がどうすればいいのかも見えてくるのでしょう。

こういうと、苦しめ、我慢しろと言っていると勘違いされることもあるのですが、そういう意味ではないですよ。

そう読み解いてしまう方は、おそらく、それを正解にしようとしてしまっているのだろうと思います。

それぞれご参究下さい。

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