昨日の夜坐後の茶話会ではこのような質問がありました。
- 経行をするのはなぜか。
経行というのは、簡単に言えば歩く坐禅。
坐禅を行う一区切りを「一炷」と言います。炷は線香をイメージして頂けると分かると思いますが、だいたい線香一本分の間坐り、経行が入ります。
目安なので約40分くらいとなりますかね。
経行はなぜするのか?
坐禅はずぅ~っと坐っているわけではなく、坐禅と坐禅の間にゆっくりと歩く経行の時間があります。
足のしびれをとるためや眠気を防ぐため、この経行をすると言われてもいます。
単純に考えても、ずっと坐っているだけだと、血流が滞ってしまいます。足の痺れの原因でもありますね。
エコノミー症候群という言葉もありますが、それと似たようなものですね。
坐禅は只管打坐(ただひたすら坐る)と言われていますが、坐禅にこの経行があるということ自体、坐禅は決して無理して坐る事ではないという一つの表れだと私は考えています。
ただひたすら坐るということが、決して身体の声を無視して、己の意志の力で身体に無理強いをさせてまで坐らせることではないということも、経行があることの意味ではないでしょうか。
ただひたすら坐る(只管打坐)には、歩くことも実は欠かせない大切な要素なのです。
ずっと坐っていることなど人間にはできません。だから歩くことも必要なのです。仮にずっと坐り続けていたら、必ずどこかに支障をきたします。
支障をきたしたら、坐ることなどできません。
だから、ただひたすら坐る(只管打坐)は、坐るだけじゃなく、歩く事にもつながっている。歩く事ともつながっていないと、ただひたすら坐ることができません。
坐るということを深く深く考えると、歩く事ともつながっていることが見えてきます。
そしてこれは歩く事だけではありません。
日常の立ち居振る舞い(行住坐臥)。立ったり座ったり、行ったり来たり、寝たり起きたり、日常生活のこととも繋がっています。
坐禅というものに向き合うと、自ずと、他の事にも向き合わざるを得ないものだと私は思うのです。
文字だけでは言いたいことの半分も表すことができませんが、それぞれご参究頂ければと思います。
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