今日の夜坐後の茶話会では、質問をいただきました。
- 坐禅中の呼吸はどうすればいいのですか?
- 不思量底を思量せよ(思量箇不思量底)ってどういうことですか?
坐禅中の呼吸
呼吸については、坐禅前にお配りしている『普勧坐禅儀』の一文にも書かれている通り、「鼻息微通」です。
鼻息、微かに通じる。つまり、自然と呼吸しているだけです。
特別な呼吸法をしようとか、数を数えようとか、意識的に何をしようと考える必要はありません。
むしろ、余計なことをせず、ただ自然と生み出される呼吸を感じてください。
不思量底を思量せよ(思量箇不思量底)
簡単に言えば、考えない所を考えると翻訳できます。
「思量箇不思量底。不思量底如何思量。非思量」と書かれていますが、この説明は一筋縄にはいきません。
一つの参考として、今日は意識と無意識の話に触れました。
例えば、心臓や胃、肝臓などの内臓は意識に関係なく、自然に動いています。考えて動かしていません。意識していません(無意識)。
その反対に、指や腕など筋肉を使って意識的に動かせる部分も人間にはあります。頭、脳からの命令で意識的に動かせます。
私達は、頭で考えて動かすこと、意図的に何かをすることだけに注目しがちですが、人間はそこだけで生きているわけではありません。
無意識に働いている、例えば、胃や肝臓などの内臓によっても生きています。そのような無意識な所によって支えられて生きています。
そういう無意識な所によっても生かされている自分。そういう自分のあり方に気づくのも、私は大事なことだと思います。
そしてまた、考えない所を考える(思量箇不思量底)に通ずる所ではないかと考えています。
ただ、今日茶話会でお話ししたのは、この話だけではありませんでした。それぞれ通ずる所があると思います。
なので、決して「思量箇不思量底」=「無意識を意識する」とは考えないでください。
ここに書いたのはあくまでも参考なので、それぞれで非思量とは何なのか、言葉上の意味ではなく、実感としてどういうことなのかを参究してみてください。
追記
一つ目の質問と二つ目の質問を関連付けて話すとしたなら、呼吸は意識的にも、無意識的にも行える器官です。
呼吸はどうしらいいのかという質問そのものが、意識的にしたいという表れなのでしょう。そのような発想だけで捉えようとする方は、意識的な所ばかりに注目せず、まずはただ無意識に行われる自然な呼吸を感じながら、坐って頂ければと思います。
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