「和尚さんの声は本当にきれいでいい声ですね。私の声なんて、こんなかすれた声で……」
先日、この言葉に対して、私は思わずこう言った。
「何を言っているんですか」と。
私が思わず、そういってしまったのには理由がある。
それは、ボロボロになった経本とその方の声。
ボロボロの経本は、以前私が差し上げたものだ。
その方は、毎日その経本を使い、朝と夜、お経を挙げていたそうだ。今は亡き大切な人のために。
実はその方は、大切な人を亡くされて、声が出なくなった。初めてお会いした当時、まるで疲れ果てたような、かすれた声だった。
それがその日、私の耳にはその方のしっかりとした声が届いていた。
実際のところ、お経のおかげなのか、時間のおかげなのかわからない。私が時折訪ねる度に、少しずつ声が変わってきていたのを、私は知っている。
その日、その経本を見かけた私は嬉しくなって尋ねた。
「ここまで使ってくれたのですか!?」
その方は、また嬉しそうに応えてくれた。
「毎日お経を挙げていくうちに、おかげさまで声も出るようになりました」
その声が素直に嬉しかった。
そしてそこまでの努力は、ボロボロになった経本が静かに物語っている。
「和尚さんの声は本当にきれいでいい声ですね。私の声なんてこんなにかすれた声で……。ダメですね。毎日よんでも、和尚さんみたいにうまくできません」
だから私も素直に思った。
いい声ってなんだろうか?
うまく音を出せれば、いい声なんだろうか?
きれいな声なんだろうか?
いや、こんなに努力した声がダメなわけがない。
綺麗な声でないはずがない。
だから、私の口はすぐ様、
「何を言っているんですか。そうやって出てくる声がダメなわけないじゃないですか」
と声を出していたのだと思う。
いい声ってなんだろう。この問いは難しい。
良いとか悪いとか。上手いとか下手とか。そんなものは人それぞれ。
基準が違えば、価値観も違う。曖昧なもの。
実を言えば、いい声と褒められている私の声を、私自身は嫌っていた。
声変わりの時期、なかなか変わらない自分の高い声。
その声に苛立った。
声変わりしても、周囲と比べて高い自分の声。
その声に自信が無かった。
最初は、その高い声で、人前でお経をよむのも嫌だった。しかし、
「お経に上手いも下手も無い」
「自分の出しやすい声を一生懸命出せば、それでいい」
そう言われた。
開き直って、出しやすい自分の声を出し続けた。
そしたら、ある日、「いい声ですね」って言われた。
それでも、最初は疑心暗鬼だった。
しかし、その声を認めてくれる人は他にもいた。おかげさまで、今はそこまで、嫌いじゃないと思える私の声。
でも私の声そのものは変わっていない。そう、何一つ変わっていない。
ひょっとしたら、変わったのは私なのかもしれない。
そもそも声は、他と比べる必要なんてないもの。比べる時はいつも“私”がいる。
“私”は声が高い。あの人比べて。
“私”は下手。この人と比べて。
“私”は自分の声が嫌い。理想の声と比べて。
“私”はいい声……。“私”は上手……。
“私”は……、“私”は……、“私”は……。
どれも<私>の声に違いないのに。いつも“私”は何かと比べる。
“私”を忘れた<私>の声は、そもそも比べようがない。
“私”のありのままではない、ありのままの<私>。
力を抜いて素直に聞こえる声には、いろんな声がある。
その声は、皆、それぞれがそのままで、いろんなものを兼ね備えている。そしてそれは皆、一様に、きれいだ。
そう私に感じさせる。
現に私は、かすれたながらも、大切な人の事を伝えようとするその声にも。訪れる度に、少しずつ変わり続けていたその声にも。しっかりとした声で嬉しそうに語りかけてくれたその声にも。
そのどの声にも、一生懸命な姿に、私は感銘を受けていたのだから。
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