どんな水にも月は宿る:仏教を理解する

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「私には無理なんです。私みたいな人間に仏教を理解するなんてことは一生無理なことです」

あきらめ気味で彼はそう言った。

「いや、そんなことはないですよ」

「そういうことではないんですよ」

そんな周りの言葉は、彼の耳には入らない様子。

だが、彼は決して仏教に興味がないわけではない。

仏道を修めるこの空間を、この時間を皆と共有しているわけだから、決して志がないわけではない。

しかし、彼はあきらめましたと言わんばかりに、自分には無理だと言い放つ。

彼を指導する立場にある老師(先生)の声も彼の耳には届かない。

「私程度の者では、所詮、あなた(老師)のようにはなれない」と。


月がある。

夜、海面にその月の明かりが映っている。

美しく輝く月の明かりを秘めた大きな海。

その海に憧れを抱くのも無理はない。

あの海のようになりたいと憧れた彼。そして、自分が海のようにはなれないと諦めた彼。

しかし、肝心なことを忘れている。

水にはいろいろな形がある。

海、川、湖、池、水たまり。はたまたコップの水や草木についた雫。

そして、どんな水の形であれ、月を映す性質はある。いや、自分が気づいていないだけで、よく観ればちゃんと、どの水にも月は映る。

だから、まずは自分をしっかりと見つめて、月の明かりに気づいてほしい。水のあり方を観てほしい。


仏教で大事な所、「智慧」や「悟り」などなど。そういう事を表現する時に、月を用いることがある。

そして、私達人間は水。いや、この世のすべて物を水に喩えることもある。

悟り=月、水=人(万物)。

水というと何をイメージするだろうか?

大海? 川? 湖? 池? 水たまり? コップの水? 雫?

水といっても様々な形がある。千差万別。

ただ、水はどこまでいっても水。

その水に月は宿る。宿っている。

確かに、自分がちっぽけで、それこそペットボトルの蓋に入っている水がいい所と思う人もいるかもしれない。

しかし、その水にも月は映る。宿る。

大きな海にはなれなくても、水であることには変わりはない。

だから、私には無理だという話ではないんですよ。

水のあり方が見えれば、また水も流れるものだということも見えてくる。

焦る必要はないんじゃないか……。

今ならそう言えるだろうか……。

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