仏教は厭世的な考えではない

※この記事は下記仏教トークの編集後記として書きました。

すべては燃えている|煩悩を火に喩えて
「出典:雑阿含経巻第8-197」仏教で煩悩を火に喩えて話されることが多いですが、その一例です。貪欲の火によって燃えている。怒りの火によって燃えている。愚かの火によって燃えている。一切は燃えている。

仏教は厭世的な考えではない

この経典の話を始めて読んだのは、学生の頃だったと思います。

当時は「煩悩が炎に喩えられているのはお釈迦さんの頃からそうだったのか」と思いましたが、よく内容がわからない感じがしました。

「全てが燃えているということは、この燃えている世界から脱却することが仏教の目指すところなのか?」とおそらく考えてしまうでしょう。

学生の頃から、そのような厭世的な考えはいまいち受け入れがたかったので、私はこのお経の内容は、いまいちよくわからないものとして、頭の隅に置いてあった程度でした。

ただすごく印象には残っていました。

今改めて翻訳してみて、細部まで考えてみると、色々な発見がある話だと思います。

仏教学は西洋から入ってきましたが、西洋の仏教学は仏教を厭世的な考えのようにとらえている側面があります。

しかし一見厭世的に見えるかもしれませんが、仏教は決して厭世的な考えではありません。

一見というのは、机の上の勉強、学問としてとらえている時によく起こりがちです。自分事として捉えていない。そんな時、仏教はよく厭世的だと誤解されがちなような気がします。

一方で、仏道に親しんでいる人達に直に接して尋ねてみると、仏教はとても活き活きとしている印象を受けます。自分事として捉えて、実践や経験を踏まえて考えるとまた違った印象を受けるのです。

教科書で読んで学ぶだけなのか、実際に現場に出て学ぶのか。この学びの違いはとても大きなものです。

きっとお経というもの同じように、現場に出て学ぶと印象が変わるはずだと私は思います。

すると、お経の文言の受け取り方も変わる。今回のお経は私にとって、学生の頃と今とで、読んだ印象が変わったお経の一つです。

ひょっとしてら今後また10年後に読み返すと、新しい発見があるのやもしれませんね。

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