コーサラ王とお釈迦さん(政治と仏教)

コーサラ国の王とお釈迦さんの関係

各国や王の勢力や財力などの話というと、ジャンルで言えば政治関連の話になるかと思います。

私自身も政治関連の情報にまったく触れないかというとそんなことはありません。むしろ、ニュースを観て情報や知識を得たり、関心を持つことは大切なことだと考えています。

お釈迦さん自身も王族の出身です。王族とは当時の古代インドでは、政治をつかさどっていた身分でした。きっと政治関連の情報や知識はあったのだろうと推測されます。

また出家後も、各国の王様と関わりが全くなかったわけではありません。

たとえば、コーサラ国の王様がいました。今回の話にも出てきましたが、コーサラ国はとても強大な国でした。コーサラ国王は仏教を信じ、お釈迦さんの事をとても信頼していました。お釈迦さんもこの国王に教えを説いていました。

特に私がお釈迦さんとコーサラ王との関わりの中で、印象に残っている話の一つにこんな話があります。

コーサラ国王の境遇

コーサラ国王の母親は釈迦国出身です。釈迦国とはお釈迦さんの出身国です。

当時の政治の策略として、女性を嫁がせることで国と国の関係を強化しようとする意図があったのでしょう。コーサラ国は釈迦国に対して、王族の誰かを嫁がせるように要望しました。

その要望に応じて釈迦国は女性を嫁がせましたが、その女性は王族ではありませんでした。自分達の身内から嫁に出すことを嫌がった釈迦国の王族は、奴隷身分の女性を身代わりにして、王族だと偽って、コーサラ国に嫁がせたのでした。

そしてその女性とコーサラ国王の間に王子が生まれました。しかしその後、その女性が実は奴隷身分出身だということが明るみになってしまいました。

この身分の違いは、当時のカースト制度があった古代インドでは考えられないことでした。おそらく、この王子も母親もコーサラ国の中で、様々な迫害を受けたでしょう。

ただ王子は王族でもありました。そして最終的には、この大変な境遇の中に生まれた王子がコーサラ国の王となりました。

この王は釈迦国を恨み、釈迦国を滅ぼそうと考えました。この王が釈迦国を滅ぼそう軍を率いて侵攻しようとする途中で、お釈迦さんと出会いました。

コーサラ国王は、お釈迦さんとはすでに良好な関係を育んでいました。お釈迦さんは、王と話し合いました。王はお釈迦さんの話を受け入れ、一度は兵を引き返します。しかし、やはり怒りがおさまらない王は、また出陣します。

その度にお釈迦さんと出会い、兵を引き返す。それが全部で3回繰り返されました。

しかし、4回目の出陣の際、王はお釈迦さんと出会うことなく、釈迦国に侵攻し、釈迦国は滅びました。

一説にはこれが「仏の顔も三度まで」ということわざの由来ともなったともいわれています。

以上の説話は手塚治虫の「ブッダ」にも描かれています。特に私が印象に残っているのはコーサラ国王の成長過程が描かれている所です。

手塚治虫さん自身も「ブッダ」はフィクションであると公言されていますが、仏教の説話やお経の話も参考にされていて、非常に面白いと思います。

お経だけでは書ききれない人間模様をイメージして、手塚治虫さんなりの解釈で補完してくれていると考えれば、むしろこれだけ読みやすいお釈迦さんの話は他にありません。

政治と仏教

さて、政治についての話に戻りますが、以上のことからも、お釈迦さんも全く政治と関わりがなかったと言えるわけではありません。

ただし、自らが政治を行うことはしませんでした。

経典内には、お釈迦さんが「自らが政治をしてよい国を作ったほうがいいだろうか」と葛藤している話も存在します。

しかし「政治をするのは私がすることではない。私の生き方ではない」と、お釈迦さんは明言しています。

決して政治に関して、無関心だったわけではありませんが、それを政治的な活動に結びつけなかったことが読み取れます。

例えば、動画にしたこの話も、一見「政治の話はするな」「関心を持たなくてよい」という風にも聞こえるかもしれません。しかし他の政治に関わる経典の話など踏まえて考えると、政治には無関心であっていいとも言えません。

ただ、その話の政治的な話の方向性がどれが強かったり、弱かったり、どこの勢力にくみするのが自分に有利か、不利なのか。特に自分の利益の話が加わると、政治的な話は途端に歪んできます。

そういった政治活動の話になっていくことを諫めての話ではないかと私は考えています。

同じ「政治」の話をしていても、その話の取り扱い方を間違えると途端に歪んできてしまう。得た情報や知識に乗っかたり、踊らされたりするものではなく、それらはあくまでも人間の行いを吟味する為のもの。

私にとって色々と考えさせられるお経の話であることは確かです。


※この記事は下記の仏教トークのあとがきとして書きました。

すべては燃えている|煩悩を火に喩えて
「出典:雑阿含経巻第8-197」仏教で煩悩を火に喩えて話されることが多いですが、その一例です。貪欲の火によって燃えている。怒りの火によって燃えている。愚かの火によって燃えている。一切は燃えている。

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