合掌とは読んで字のごとく、掌(てのひら)を合わせること。
顔や胸の前で両手の手のひらを合わせます。仏教が興ったインドでは、古くから行われてきた敬礼作法の一種です。
日本でいえば、お辞儀と同じと言えばわかりやすいでしょうか。
合掌の形
両の手のひらを合わせるという点で共通する合掌ですが、その形は実に多種多様です。
ただ、基準がないと伝えようがないので、私が坐禅会など、坐禅指導で伝える時は、以下の点を基本的な合掌の形として伝えています。
基本的な合掌の形
- 手を合わせます。
- 手のひらも右と左を出来る限りぴったりとくっつけ、指と指の間が開かないように合わせます。
- 中指は鼻の高さに。
- 鼻のてっぺんと中指の先が同じ高さとなります。
- 自分が合掌している姿を見せながらこの説明をすると、皆さんの手の角度が自然とまっすぐになります。指先から手首の直線ラインが地面と垂直になるということですね。
- 鼻先と中指の間はこぶし一つ分くらい空けます。
- 顔と手が近づくほど肘が脇の下のほうに移動しがちになります。そうして脇がしまると、窮屈そうな状態になってしまいます。
- 自分が合掌している姿を見せながらこの説明をすると、皆さんの脇が閉まって窮屈そうな姿勢が柔らかになります。
私が合掌の形を伝える際、現時点では上記のような説明に落ち着いているわけですが、その背景にある私自身の経験や、知識に少し触れておきたいと思います。
初めて教わった合掌の形
初めて厳密に教えられた合掌の仕方は、大きな特徴を一点あげれば、肘をはることでした。
上記の説明に加え、右ひじから、左ひじのラインが一直線になるようにひじをはります。
修行道場でもずっとこのような形で、合掌をしていました。
この形は、肩ひじがつっぱった状態で、どうしても力が入る形になってしまいます。
正直、個人的には不自然さを感じる形でした。
調べるというほどではないですが、上記の形に不自然さを感じるのもあって、事ある毎に知識を蓄えるようにしていました。
そもそも合掌とは何なのか?
合掌がいつどこでされていたのか?
合掌のやり方が他にもあるのか?
中国から日本に曹洞宗の教えを伝えた道元禅師の書物に合掌の形について明記されているのか?
などなど。
他国の合掌
日本は、大きな枠組みでは、大乗仏教と呼ばれています。そして、タイやスリランカなど東南アジアに流れた仏教は上座部仏教と呼ばれています。
上座部仏教の国の中には、お坊さんに限らず、一般的にも皆さんが合掌をして挨拶をしています。
手を合わせるなど、共通点はありますが、中には違いもあります。
例えば、目上の方に対して、下の位置で合掌をするのはマナー違反です。
合掌の位置を上に上げる。これが目上の方に対する敬意を表しています。
日本の場合、合掌の位置をあげる、頭の上で合掌すると、何かせがんでいるように見えると言われます。
このように、一言で合掌と言っても、違ったやり方があります。
それぞれ、合掌に込める想いもまた違ったものがあることを私は知りました。
赴ふ粥しゅく飯はん法ぽうでみられる合掌の形
道元禅師の書かれた「赴粥飯法」にも、入堂(お堂に入る)の仕方で、すこし合掌に触れている部分があります。
顔の前で合掌して入る。合掌の指先は鼻先に合わせる。頭が下がれば指先も下がり、頭がまっすぐならば指先もまっすぐになり、頭が少し斜めになれば、指先も少し斜めになる。腕を襟もとに近づけてはいけないし、ひじをわきの下につけてはいけない。
- 指先と鼻先を合わせる。
- 合掌したまま礼をした時の状況
- 腕が縮こまるような形にならないこと
の三点が書かれています。
合掌に関する想い出話
私はイギリス留学中に、あるクリスチャンのご家族と仲良くなりました。ご自宅に招いて頂き、お茶を飲みながら色んな話をしました。
その中に、こんな話をしたことがあります。
クリスチャンの方と語った拠り所の話
「人は一人では、自分を支えきれない。だから拠り所がある。クリスチャンである私達は大きな樹に依って生きている。大きな樹は神さま。そのしっかりとした寛大な樹に私達は依っている」
そう言った後、クリスチャンであるその方は更に私に問いました。
「仏教ではどうなの?」と。
仏教全体がどう考えているかは言えませんが、仏教徒である私はこう応えました。
「人は1人では、自分を支えきれない。それはそう思う。だからこそ、人は人の支えになれる。要するに「人」という字と同じこと。日本語ではこのように書く。1人では偏るからこそ、その偏りを他の人と支えて合う」
そして私は、あることに気づき、続けてこう言いました。
「そんな人の姿が、合掌(手を合わせる)の形に表れているのかもしれない……」と。
合掌と「人」というイメージ
実際、片手で合掌しようとすると、片方の腕の筋肉だけでまっすぐしなければならないので、両手でする場合と比べて、大変です。
特に修行道場で教えられた合掌でやってみると、全然違います。
手と手を合わせるとお互いが支え合って楽に合掌できます。
その後、私が付け加えるように「お経や資料に基づいているわけではないから、わからないけどね」というと、クリスチャンの方は「きっとそうよ」と言ってくれました。
それ以後、私の中では、合掌に「人」という字のイメージが浮かんでくるようになりました。
資料的な根拠があるわけではないですが、きっと私の中ではそうなんでしょう。今はそれでいいんだと思っています。
さいごに
坐禅指導などで、合掌の仕方を伝える時は、ここまで色々と話をすることはできません。
中のものを外に伝える。私の中のものを他の皆さんに伝える。何かを伝える時は何かしらの形・型にして伝えなければなりません。言葉もその一つです。
私が伝えている合掌の型には、こういう背景があって生まれたものであるということを、皆さんにも知っていただきたくて、今回の記事を書きました。
私は教えられた型だけを厳密に守ろうとしていたわけではありません。
所謂「型にはまる」ということはしませんでした。
坐禅指導の時に、そこまで「作法はそこまで気にしなくてもいいですよ」というのは、そういう背景があるからです。
ただ、私は教えられた型を否定し、耳を塞いでいたわけではありません。むしろ、耳をすませて、その型を学びました。そして、そこから浮かび上がる疑問にも耳をすませました。
だから、自分のやりたいように好き勝手にやるという、所謂「形無し」にもならないように注意していました。
坐禅指導の時に、全く何も聞いてくれない方に注意するのは、そういう背景があるからです。
皆が個人個人好き勝手にやってしまい、何も聞こえなくなってしまったら、何もかもが伝わらなくなってしまいます。
これは合掌だけに限る話ではないと思います。
その型を学び、そこから、どうしてその型があるのかと疑問を持つ中で、型が自然と様々な事を教えてくれる。
そうして耳を澄ませば聞こえてくる様々な教えを元に、いずれ自然と自分に合う型ができあがってくるのではないでしょうか。
コメント