問答について
参禅の際に、私が必ず行うように心がけていることがあります。
「何か質問はありませんか」と、参禅者の方々に質問をしてもらうことです。
私にとって質問は、自身の勉強の為でもありますが、それ以上に、仏教や禅を伝えるために欠かせない、一つのコミュニケーションだと考えています。
そして、質疑、応答といえば、私は「問答」という言葉が思い浮かびます。
問答というのは、禅学大辞典にはこのように書かれています。
修行者が質問して、師家が応答すること。または、師家が修行者の心境を点検しようとして、ことさらに問を発して答えさせることもある。あるいは、二人以上のものが問いつ答えつして仏法を挙揚することもいう。
禅問答というと少し仰々しいイメージがあるかもしれません。
しかし私は、もっと普通の会話から生まれる問いや答えも、問答と言えるのではないかと考えています。
それは自身の経験からも言えることです。
庵主さんとの問答
私が曹洞宗研究センターに入ってしばらくたった頃、近況報告を兼ねて、お世話になっていた庵主さん(尼僧さん)とお会いしました。
ちなみに私が在籍した曹洞宗総合研究センター教化研修部門は、平たく言えば「どうやって仏教を伝えていくか」を学ぶ所です。
その時の私は、言われた事、カリキュラムをただこなしているだけのような気がして、確信というか、方向性というか、いまいち、自分のやっている事に自信を持てませんでした。
そんな私に、庵主さんはこのようなことを言ってくれました。
「勉強するのも大事。それは、立派なことだけど、それはしっかりと消化することを忘れてはいけないよ」と。
消化するというのは、自分のものにするという事。学んだ事はただ学んだというだけで、それは自分のものにはなっていません。
学んだ知識はただの食べ物で、それを実際に味わっていくこと、食べることが大事。それが実践するという事にも繋がります。
そうして消化していくことで、自然と自分の身についていきますし、ついでに、余分なものはでていきます。
噛みしめて、吟味して感じる味
正直にいうと、当時の私の感覚では、どうしてその話になったのか、よくわかりませんでした。なぜなら、仏教、特に禅では、実践が大事という類の話はよく出てくるからです。
だから自分の中では当たり前の話を聞いている感覚がありました。
しかし、料理の得意だった庵主さんは、食べものの話と絡めて自分の言葉で話して下さいました。
だからでしょうか。自然と大事な所だという感覚も自分の中にはありましたし、不思議と印象に残っているのです。
おそらく、頭でしか分かっていなかったであろう事。それが自信を持てないことに繋がっていたのかもしれません。
もちろん、庵主さんには直接「自信がない!」なんてことは言いませんでしたが、今思えば、私の問いかけ、会話の節々でそういう事が垣間見えていたのかもしれません。
だから、このような話に繋がったのだろうと今になって思います。
私自身、この問答は、胸の奥に今でもしっかりと残っています。つまり、しっかりと噛みしめていたのでしょう。
噛むのが大事と分かっていても、その時は、本当に噛んでいるのかどうかなんて、実際わからないものです。
そして、噛みしめて、その味が分かるのは後の事。ただこういう事は、自然と心の片隅に残っているものなのかもしれません。
今になって吟味して、ようやく言葉として、意で感じた味を表現しようとしている自分がここにいます。
この経験も、私が問答という質疑応答は、こうしてしっかりと噛みしめる、食べるという意味でも、大事だと考える理由の一つです。
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