ブラジル寺院での出来事

水の流れのたとえと牛飼いの話|「何事にも捕らわれない」の勘違い
「出典:雑阿含経巻第43-1174」阿含経にあるお釈迦さんと在家者さんのやり取り。世間のしがらみを捨て、今の牛飼いの仕事を放棄して、すぐにでも弟子入りをお願いしようとするナンダさんにお釈迦さんはどのような対応をしたのでしょうか?

※この記事は、上記仏教トークの編集後記として書きました。

ブラジルの寺院での出来事。出家したいとやってきた。

私はこの話を見ると、ブラジルでの出来事を思い出します。私がブラジルのお寺でお世話になっていた時の事です。

ある日、その方は、ブラジルにある寺院にやってきました。「仕事も家庭も全てを捨てて、出家しに来ました」と、本人的には覚悟を決めてやってきたようでした。

ただ私には、その方が「覚悟」というものが、何だか空回りしているように見えました。

今に思えば、今までに出会った全ての縁を切ることによって、何事にも捕らわれることなくなる。その方には、そういった想いがあったのかもしれません。

私とその方とは、寺院の中で、直接かかわる機会が多くありました。その方の日々の行動を見ていると、気持ちと行動が噛み合っていない事がよくありました。

心機一転、今までの自分の人生を全て無かった事にしてしまうと、不思議と、今まで自分に染み付いた自分(我)というものが露骨に浮き上がってきます。

何事にも捕らわれたくないという自分に捕らわれている。

きっと、その方には、自分の人生を無かったことにするより、自分の人生を振り返って、見つめなおす時間が必要だったのかもしれません。

捕らわれないということは、単に、全部捨てて、無かったことにすることではないと、この時、その方を通じて、痛烈に教えてもらいました。

ただ、今までの自分を捨てたい人間にとって、自分の見つめるということは、無意識に避けようとしてしまうのでしょう。

結局、私の言葉は届かず、1週間ほどで寺院を離れていきました。

その後、経典の中にあるお釈迦さんのこの一説を知りました。この話を当時の私が知っていたら、また違った伝え方ができたのだろうかと、当時の事を思い出してしまうのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました